
日露戦争のあと、良質な軍馬調達の必要から日本は馬産に力を入れた。各地に置いた種馬牧場や種付牧場らの存在が、それぞれの土地で「馬産の基盤」を築いた......過去を知る皆さんの話や、資料の記述から、そうした流れをここまで振り返ってきた。
ただ、国営牧場のあったおかげで馬産地が成立した、だけでは説明は足りない。状況がわからない。浦河町のHPにわかりやすい一文を見つけたので、ご覧いただきたい。
《国営の幾つかの牧場だけでは、軍が必要とする馬の一割も集められない。そこで種馬牧場が持っている生産馬のうち、牡牝数頭だけ残して、あとは民間に払い下げていく。また毎年、生産馬の何割かを全国の種馬所に種牡馬として派遣、又は民間に貸し付ける。この種牡馬が民間の牝馬と交配して、全体として血統も容姿も次第に整えられた馬が生産されることになる。軍はこれら民間の生産馬から、用途に応じた良馬を購入して、必要量をまかなうというやり方だった。(中略)

日高以外の地域が、派遣された種牡馬を利用する以外に改良の方法がなかったのに対し、浦河周辺の地域は、種馬牧場繋養の種牡馬の種付けを受けることもできたし、最新の飼育管理の技術をいち早く手にすることができたことが、軽種馬産王国"日高"を作ったのであろう。》(「浦河百話・第33話」より)
そうした背景と恩恵を受けて、日高には早くから軽種馬がいた。
「戦前、アラブを1頭買ってきたのを覚えてるわ。ナスノっていうタネ馬を付けて、できた子供が昔の国営競馬に売れたんだよね」
そう話すのは新ひだか町(旧三石町)の信田幸二さんである。装蹄師として長く活躍した。

大正11年に生まれた。8人兄弟の二番目だった。中間種の農耕馬が家にいたから、馬には子供時分から馴染みがあった。家では米を、また畑で大豆などを作った。先ほどの言葉からもわかるように、やがて馬も生産するようになった。
同じ頃、浦河のセリへ馬を連れて行ったことがある。現在の堺町(千歳から向かうと浦河市街地の手前)の国道脇で馬市が開かれたという。
無論、歩いての行程である。山を越えるため、クマが怖い。近所の知人が集まって、集団で出かけた。必需品は馬のわらじだった。片道用に2足を作り、ここじゃ履かせない、ここで履かせようと、道の状態によって装着地点を決めた。ずっと履かせていると、ボロボロになってしまうからだ。ようやくの思いでたどり着いた会場には馬場があった。その馬場をぐるり一周するくらい、たくさんの馬が運ばれてきたという。
(*筆者注:右の写真は昭和初期の馬市の様子。場所は不明)

ただ、苦労して運んだからと言って、売れるとは限らない。
浦河で買い手が決まらず、そのまま静内の馬市まで馬を引っ張っていったこともあった。馬運車でなら1時間程度の道のりでも、歩くとなると大変である。当時の関係者の苦労が偲ばれる。
数えの21歳で徴兵検査に合格し、入隊した。"北鎮部隊"として名高い旭川の第7師団が信田さんの所属先になった。
馬に親しみが強いから「できれば騎兵に」との希望を持っていた。が、規定の身長に少し足りず、輜重(しちょう)隊へ配属された。さまざまな物資を前線まで運ぶのが輜重隊の役割である。その主役はもちろん馬だから、部隊においても接点はあった。
ある日のことだ。
「前掻きするし、寝たり起きたりして、馬の様子がおかしい」
担当の獣医部長が首をかしげた。
直前の担当者から申し送りはなかったが、それを聞いて信田さんは、馬が何時に前掻きして、何時にたてがみの下に汗をかいて......と詳細なメモを取った。そして、そのメモを下士官に渡したのだ。
「間違いない、腹痛だ」
報告を受けとった獣医が判断し、信田さんの仕事は賞賛された。
「これだけちゃんと見てる奴はいない。おまえ、だいぶ馬が好きなんだな」
笑顔の獣医部長からそんな言葉をかけられたという。
戦地へ赴くことはなかったものの、昭和20年5月、"沖縄へ向かえ"と部隊に命令が下った。しかし、戦況はすでに厳しく、沖縄へたどり着くのは到底ムリと、船に乗り込んでから判明した。
行程が変更になった。まずは青森に着き、それから関東へ南下した。馬と共に下りたのは千葉の駅だった。山の方へ歩き、孟宗竹の生えた林に天幕を張った。なぜ千葉で下りたのか、何をするためだったか、信田さんらに知らされることはなかった。
「夜、山の上から、東京の空襲が見えた。次の日、馬に乗って応援に行っんだけども、ほとんど焼かれて、何もなかった。仕方なく帰ってきたんだわ」
結局、同じ山中で終戦を迎えた。
部隊が函館で解散になると、信田さんは一人、三石に戻った。
家まで歩く途中、馬にリヤカーを曳かせて、魚売りが行商していた。根が馬好きだから、信田さんの目はどうしても馬に行く。
――これ、サラブレッドでないか......?
ふと思い、その気持ちはどんどん強くなった。
行商に使われるサラブレッドは哀れだった。競馬がないとこうなるのか、と寂しさも募った。ただ、寂しい光景ではあっても、戦後の混乱期を、人も馬も、とにかく生き延びなければならない。
「戦後、自分は装蹄して歩いたんだわ」
信田さんは言った。
次男だから手に職を付けなければならない。そう思っていたところに、部隊での経験から装蹄師の資格がもたらされたのだ。装蹄用の釘を作ったり、削蹄をしたり、そうした仕事も輜重隊では多かった。
それから50年以上、信田さんは馬に向き合い続けてきた。装蹄師の仕事を辞めたのは平成12年、77歳の時だった。

「装蹄した中で、思い出に残ってる馬、いませんか?」
僕が聞いた。
「チャイナロックかな。キレイな馬だった。われわれの全盛時代だわ」
しみじみした笑みを浮かべて、信田さんは言ったものだ。
「今でもあるのかな、銅像......?」
最後のつぶやきを確かめようと、取材のあと、同じ三石にある本桐牧場へ行ってみた。
入口から少し進んだところに、チャイナロックの銅像は確かにあった。立派な碑の横でキッと前方に目をやり、今も競馬の行く末を見つめているようだ。言うまでもないが、昭和の競馬に一時代を築いた名種牡馬である。
――長い馬産の歴史、もっとちゃんと勉強しろよ。
今度はチャイナロックの、またその子供のタケシバオーやハイセイコーのつぶやきが、この耳に届いた気がした。
(未完)
*編集部注......取材者の発言内容は、可能なかぎり史実と照らし合わせ、内容を確認してから掲載していますが、現存する当時の資料は少なく、一部に記憶違いが含まれている可能性もあります。ご了承ください。



