JBIS-サーチ

国内最大級の競馬情報データベース

第58回『トウカイテイオー「さん」』

2013.10.11
 名前を呼ぶときに「さん」付けする馬が何頭かいる。まずは自分とそれほど離れていない年齢、もしくは年上の馬に対する場合。さすがにこの年で(41歳)、年上のサラブレッドがいたとするなら、それはギネス記録更新間違いなしであるのだが、ノーザンテースト(CAN)(1971年生まれ)に取材で初めて会ったときには、1つ年上の先輩だけに、「ノーザンテースト先輩、チース」と体育会系の性として、深々と頭を下げさせてもらった。
 「さん」付けするもう1つの場合は、現役時代にファンだった馬に対する場合である。自分が競馬ライターとして仕事をさせてもらったのは24歳からになるので、それまでに見て来た馬のほとんどがファンとなるのだが、その中でも好きだった馬がトウカイテイオー「さん」だった(この後、ちょっとだけ敬称略)。

 そんなことを書いておきながらも、クラシックを沸かしていた3歳時の姿はあまり印象には残っていない。自分がトウカイテイオーを決定的に好きになったのは、4歳時の不振と復活、そしてまたも凋落、最後5歳時に奇跡の復活を果たした姿を見た時だった。競馬を見て、初めて涙したのもトウカイテイオーのレースだった。今でも忘れもしない93年の有馬記念。その日、自分は道南の漁村にあった実家へと戻り、家業のガソリンスタンドの手伝いをしていた。

 とはいっても、この日は午後3時から店番をサボり、茶の間のTVで有馬記念にかじりついていたのだが、トウカイテイオーがパドックに姿を現したとき、なんとも言えない気持ちを感じていた。

 その前年、同じ有馬記念に出走していたトウカイテイオーは、圧倒的な1番人気に支持されながらも11着に大敗してしまう。ジャパンカップで外国馬を退けた姿を見てファンになりかけた自分は、いいところ無く敗れ去ったトウカイテイオーを見て、信じていたものに裏切られたような不快感さえ覚えた。

 常識ではあり得ない1年ぶりの出走となるGⅠ挑戦にも、正直、出てきて欲しくないという気持ちさえ抱いていた。だが、ゲートが開いてから約2分30秒後、自分は大粒の涙をボロボロと流すこととなる。

 最後の直線、トウカイテイオーが1番人気のビワハヤヒデの後ろにいることが信じられなかった。そしてゴール前、トウカイテイオーが先頭に立った瞬間、茶の間から事務所へと移動し、事務所のTVのチャンネルを変えて、店番をしていた母親だけでなく、そこにいたお客さんに対しても、「これを見なきゃ駄目だって!」と言いながら、ウイニングランをしていくトウカイテイオーを見せつけた。

 しかし、そんな息子に対する母親の反応は冷徹かつ非情であり、「ちょうどいいところに来たわ。配達用のタンクローリーが戻ってきたから灯油を入れておいて」と指示を出され、気分が高まった自分は言われるがままにタンクローリーの上に登り、寒空の下で給油ノズルを持ちながら、「トウカイテイオー、ありがとう!」と涙や鼻水で顔をぐしょぐしょにしていた。

 その時から、トウカイテイオーが会いたい馬の№1となっていた。その後、紆余曲折こそあったが、自分が競馬ライターとして仕事をさせてもらえるようになり、種牡馬としての繋養先である社台スタリオンステーションでの取材の際、馬房からトウカイテイオーが姿を見せた時に思わず、「触らせてもらっていいですか?」と言ってしまったのは、後にも先にもトウカイテイオーが最初で最後の馬である。

 その後も見学させてもらう機会があれば、トウカイテイオーだけは写真を撮るようにしてきただけでなく、見学場所の近くにある社台スタリオンステーションやノーザンファームの取材の合間には、のんびりと時間を過ごす姿を見て息抜きをしていたこともあった。

 厩舎と放牧地を移動してからは、姿を見る機会こそ減ったが、父のシンボリルドルフが30歳まで元気だったことからしても、長生きすることを疑っていなかった。だからこそ関係者から「亡くなった」と知らされた時、あの有馬記念で出し尽くしたのか涙こそ出なかったものの、本当に心にすっぽりと穴があいたような気持ちになった。

 馬より人が長く生きる生物である以上、様々な名馬の死に接することは仕方のないことだと思っている。それでも競馬は涙を流すほど感動出来ることを教えてくれたトウカイテイオーが、亡くなったという事実はどこか寂しい。だからこそ、トウカイテイオー「さん」が示してくれた、「競馬は感情を突き動かされる世界である」ということを伝えていくことが、自分なりの弔いだと思っている。合掌。
トップへ