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第84回 『他山の石とするのではなく』

2015.12.24
 先日、とある生産者の方から電話をもらった。その生産者の方とは、取材を通して親しくさせてもらっており、最近も活躍馬が現れたことで、重賞を勝利する度に電話やショートメールなどでお祝いの言葉を贈らせてもらっているような関係である。
 また嬉しい話を聞かせてもらえるのかな、と思って電話に出ると、その生産者の方は沈んだトーンでこんな話をしてきた。

 「先日、新聞の取材を受けたんだけど、話していることのニュアンスがまるで違っていて。でも、もう記事が出てしまった後なので、どうすることもできなくてさ...」

 確かにその記事を読んだ時、ある部分に違和感を持ったのは事実だった。その生産者の方に尋ねると、やはりその違和感を持った部分が違った解釈をされていたようであり、記事が出た後に生産者の知人の方から、「こんなことがあったのかい?」と聞かれたという。その生産者の方は話す。

 「村本君が仕事をしているような雑誌だと、記事が出る前に原稿を見せてもらえるけど、新聞は自分の話したことが次の日にすぐに出てしまうので、確認も修正もできないんだよね。別にその新聞記者の方を責めるわけではないんだけど、今後、取材を受けることが苦になってしまうというのか...」

 本来ならば喜びの言葉として伝えられるはずだった、その生産者の方の記事。しかし、その時に口にしたとある単語の解釈を記者が取り違えたことで、読者側には違和感が残るだけでなく、何よりも生産者の方にとっては、読み返したくもないような記事になってしまったことは、非常に悲しいことでもある。

 自分は新聞のように速報性を求められる記事の仕事はあまりしていないが、ごく希にインターネット媒体などでレースに関するニュース記事を書かせてもらうことがある。その場合は各新聞記者の方と共に、騎手や調教師のコメントを聞かせてもらうのだが、いきなり始まる取材を聞き漏らしてしまう場合や、ほぼ同時に騎手、調教師が話し始める場合もある。その時は取材の後、記者同士が取材した内容を確認し合う光景が見られる。

 普段はこうした取材に参加していない自分も、その時だけは図々しくその集まりに参加させてもらうのだが、確かにこうすることで間違った情報が出ることは防がれる。

 今回の生産者の方で言えば、取材の内容確認を怠ったのではという見方もできる。それというのも、他の新聞では、間違ったニュアンスとしては伝わっておらず、その問題となった単語も使われてはいない。たまたま、その記者だけにその単語を話してしまったということも考えられるが、それもみんなで確認をすれば防げた可能性もあったはずだ。

 この話は全く「他山の石」ではない。自分も取材の際、文章の流れを作るがために、取材の際に聞いた言葉を、文章では他の表現で言い換えることもあるし、前後を繋げるため、もしくは文章をまとめるために、言葉を継ぎ足すこともある。

 それが許されるのも、執筆後、取材をお願いした方に文章を見直してもらう時間があるからだ。よっぽどニュアンスの違う意味として書かなければ、修正をされることはほぼ無く、また、取材者の思いを伝えていくという協調心と安心感のもとで原稿を書くことができる。

 一方、新聞はタイトな締め切りの中で、情報を詰め込み、記者の視点を加え、しかも正確な情報を届けなくてはいけない。学生の頃は新聞記者になろうと思い、実際に新聞社の入社試験を受けた(そして落ちた)自分だが、いざ、スポーツ会場といった現場で記者の皆さんの仕事に接し、そして次の日の新聞に載っている原稿を見ると、とても自分はこの仕事はできなかったと思わされてしまう。

 きっと単語の解釈の違いも、熱心な取材活動のもと、自分だけのオリジナリティな記事として書いてしまったのだろう。ただ、一つだけミスがあるとするのなら、それは新聞にあるまじき、間違った解釈ということである。せめて他の記者に確認をするか、もしくは記事を読んだ上司の方が「これは本当なの?」と一声かけていればその表現は見直され、生産者の方も明くる日の新聞を開いた瞬間、笑顔を見せたに違いない。

 もう、記事は掲載されてしまった以上、修正記事を頼むにしても手間がかかる。これから取材を受けるのが苦痛だという、その生産者の方に伝えたのは、「レースの結果が出る前から話す内容を考えておいた方がいいかもしれません。勿論、喜びのあまり、全く違った表現も出てしまうかもしれませんが、それでも最低限、事前に用意した言葉を口にすれば、あとは記者の皆さんがまとめてくれるはずですから」

 そう話をしながらも、いつ自分も話し手の解釈とは違った表現をして、人を傷つけるかも知れない考えた時に、身震いを覚えた。
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