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第204便 フラットくん

2011.12.06
 仕事を終えると,歩きに行く。夏の終わりのころ,山道の石段をゆっくりと上がり,サッカーや陸上のグラウンドと野球場とのあいだ,バスケットボールのゴールポストがひとつ立っている抜け道のベンチで休んだ。遠くの少し赤い空に富士山が見える。まだ蝉が鳴いていた。
 「こんにちは」
 ボールをドリブルしながら現われ,足を止めてゴールを狙い,見事にシュートを決めたのはフラットくんだ。こうしてひとりで遊んでいる小柄なフラットくんを,たまに私は見かける。挨拶はするけれど,会話をたくさんしたことはない。

 フラットくんは私の孫娘と中学校でのクラスメートで,男子だけの私立高校へ進んで2年生だ。
 「なんか変わってるの。ふらあっと仲間に入ってきたり,ふらあっと消えたり,正体がつかめない感じ。初めはカゲローくんだったのが,フラットくんという名前になった」と孫娘から聞いたことがある。勉強はデキるのだろう,偏差値の高い高校へ進んだ。

 その夕方,「不思議なことが起きたんです」とフラットくんは手のひらでおでこの汗を拭きながら,私のいるベンチに座った。
 自分で言って来たのに,そのあとフラットくんはボールを持ったまま黙っているので,こんなところがフラットくんらしいのかなと思いながら,「不思議なことを聞きたいね」と私は話の催促をした。

 「満員ではなかったけど,電車で,吊革につかまっていて,本を読んでいてうっかりオナラをしちゃったんです。音はしなかった。
ヤバイと思って,どこかへ行こうとしたけど,なんだか動けない。腕時計みたら,4時22分。どうしてあんなに,しっかり時間をみたのかなあ。で,家へ帰って,オナラのことを考えて笑いそうになって,台所の壁の時計を見たら,その時間,4時22分で止まってた」
 「おお,凄い」
 そう言ってから私は笑った。
 「不思議で不思議で不思議で」
 会話をしないでフラットくんは,いきなり動いてボールをドリブルし,ゴールへシュートをするのだった。

 いつのまにか地虫たちが合唱し,10月になっている。私が乗っていた逗子行きの電車に,武蔵小杉駅でフラットくんが乗って来た。会ったのは「オナラと時計の話」以来である。心臓の調子が狂ったりして,しばらく私は散歩に出なかったのだ。
 「相変わらず,ひとりバスケ,やってるの?」
 「あれだけが,ぼくの遊びなんで」
 と笑い顔になったフラットくんと横浜駅で並んで座れて,
 「オナラと時計の話には感動した」
 小声で私が言った。
 その話,作り話だろうかと,私は考えたことがある。もし作り話だとしたら,フラットくんには,何かの才能があると考えもした。そのことは言うまい,と思っている私に,
 「競馬のことを書いてるって聞きました。うちのじいちゃん,会ってみたいなあって」
 そうフラットくんが言うのだった。

 数日後にフラットくんの祖父の雄介さんが私の家へ来た。65歳で商社を退職し,3年が過ぎたという。
 「孫(フラットくん)が小学生のときに娘(フラットくんの母)が離婚しまして,わたしが父親の代理をしてきました」
 と言う雄介さんは,酒場友だちに教えられ,退職してから馬券をおぼえたようだ。
 「いちど,競馬場へ行ってみたいのですよ」
 「そういう人を競馬場へ連れて行くのが自分の仕事みたいなものでして」
 と私が笑った。

 10月30日,鎌倉駅で待ち合わせた雄介さんと東京競馬場へ行った。
 「これが競馬場というものですか」
 府中本町駅からの通路を抜け,競馬場を眺める。これがスタンド,これがパドックと雄介さんは足を止め,しばらく見とれて,
 「68歳で初体験というのも感動的です」と私に握手を求めた。

 午後に私は約束があり,雄介さんと午前のレースだけつきあって,ケイタイの番号を教えあって別行動になった。
 11R天皇賞・秋が終わり,12R東京ゴールデンプレミアムが終わり,私は新宿に向かう友だちの車に乗っていた。
 「事件が起きました」
 かかってきたケイタイで雄介さんが言った。
 「昨夜,正樹が,読ませてくれって,わたしのところから競馬新聞を自分の部屋へ持って行ったんですよ。それでしばらくして,馬券の買い方を教えろっていうから,いろいろと教えたんです」
 フラットくんの名が正樹である。
 「もし自分が買うなら,こう買うなあって,メモ用紙に3連単を3つ書いてきたんです。
 そのメモをわたしはポケットに入れてきたんですね。100円ずつ買ったんです。そしたら,その3点のうちのひとつが当たっちゃったんですよ。⑫−⑦−⑧。配当が21万4010円。
 正樹は知らないだろうけど,どうしようって思っていたら,正樹はテレビを見ていて,興奮してケイタイをかけてきた。
 バスケットのマイケル・ジョーダンは自分の神さまだから,トーセンジョーダンからシルシのついた馬へ買ったって。
 事件です,これは。うっかりすると,正樹の人生を左右するかもしれない事件ですよ。どのように扱ったらいいですかね,この3連単馬券。
 君が言った馬券だから君のものだなんて,単純に渡すわけにもいかないような気がするんですよ。なにせ21万ですから。どうしたらいいのか,考えていただけないでしょうか」

 雄介さんの声を聞きながら,フラットくんの「オナラと時計の話」が頭に浮かび,この3連単的中事件は,もういちど「オナラと時計の話」が現実に起きたのだと私には思えた。
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