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第261便 雲の上から

2016.09.13
 朝早く、新聞を読む。ベラ・チャスラフスカさんのことが記事になっていて、1964年の東京オリンピックの体操競技をしている彼女と、2016年6月の74歳になっている彼女の写真が並んで載っている。
 「あの東京オリンピックのときの、チェコスロバキアのチャスラフスカの美しさって、今でも思いだせる。テレビに白い夢の花が咲いているみたいだった。おれも、まだ26歳さ」
 そう誰かに言いたくなりながら私は、記事を読むうち、緊張してきた。
 2015年4月に彼女は膵臓ガンに襲われて手術をしたのだった。そして2016年、肝臓にもガンが見つかり、もう治療はできないと医師から言われてしまった。
 「雲の上から手を振りますね」
 と彼女は取材する記者に伝える。2020年の東京オリンピックのときには、
 「大好きな日本に向かって手を振りますね」
 ということなのだ。
 「6月23日、プラハで」と説明された写真の74歳のベラ・チャスラフスカさんは黒いリュックを背負っている。それは写真では見えないけれども、リュックから伸びた細い管が右腕につながっていて、「点滴で栄養をとっているから食べなくても大丈夫」というのが彼女の言葉だった。
 「雲の上から手を振りますね」
 と言われて言葉を返せない記者に、
 「人生はそんなものです。受け止めるしかない。
 ここに来てくれてありがとう。私のことを、日本の皆さんに伝えてください」
 と彼女はつけくわえた。

 「夏の週末にはウインズに行くんです」
 そう私はチャスラフスカさんに言うようにして家を出た。バスに乗り、電車に乗りかえ、ウインズ横浜へ向かう。相変わらずの、おれの夏だ。
 桜木町駅の改札口を出たあたり、スマホを手にして下を向く若者が奇声をあげた。ポケモンGOというのをやっているのかな?
 ポケモンGOって何なのだ。こっちはボケモンGOだよ。そんなふうにつぶやきながら私は、コーヒーショップに入った。駅からまっすぐにウインズへ行けず、いちど座りたくなったのは、
 「雲の上から手を振りますね」
 というチャスラフスカさんの言葉が聞こえてきたような気がしたからだ。
 「リョウさん」
 まだ席が決まらないうちに、私は声をかけられた。店の奥で坊主頭のナベちゃんが私に手をあげているのだった。
 ナベちゃんはもうすぐ40歳。長距離トラックの運転手をして、10歳の娘と、その店の近くのアパートで暮らしている。ナベちゃんがはたらく運送会社の社長が社台共有馬主クラブの会員で、牧場ツアーに社長がナベちゃんを連れてきたことがあり、それで私とは知りあった。
 「おれの女房は娘が4歳のとき、若い男に惚れて消えちゃった。そんなダメな女に子供まで産ませたおれは、もっとダメなんだ。娘をちゃんと育てること。それに馬券をやること。おれの人生、それだけ」
 そう言ったときのナベちゃんの笑い顔を私は忘れられない。
 コーヒーショップのカウンターでコーヒーを受けとった私は、ナベちゃんとテーブルをはさんで座り、首の汗をふきながら、ナベちゃんにチャスラフスカと言っても知らないよなあと思った。

 「去年の夏に、うちの社長と伊勢佐木町で飲んだときに一緒にいたマツオさん」
 「おぼえてるよ。不動産会社の顧問をしてるとか言ってた、上品なアロハシャツの白髪のおじいさん。小牧太の馬で大穴を取ってから小牧ファンになっちゃって、小牧が乗る馬を買いたくなって困るんだって笑ってた」
 「そのマツオさん、死んじゃったんですよ、六月の終りに」
 「いくつだった?」
 「六十九歳」
 「早いな」
 「今年の春先にガンの手術をして、ちょうど5月1日、天皇賞の日の昼前に、社長と見舞いに行ったんですよ、病院に。
 そのとき、新潟のメーンの谷川岳Sの、小牧が乗るピークトラムの単勝を買ってくれって、おれが1万円札をあずかった。
 マツオさんは新潟との県境に近い長野の山奥の生まれで、高校を出るまで谷川岳を見て育ったというんですよ。
 その谷川岳Sに小牧が乗るんだから、これは単勝を1万円、買わなくちゃならんて。もうマツオさん、痩せこけてたけど、声をふりしぼるようにして言ったんです。
 で、おれがウインズに行って買った。勝ったんですよ、2番人気で単勝500円。
 その日のうちに馬券を届けた。マツオさん、骨だけみたいな手で、その馬券をつかんで、ずうっと見てた」
 「ピークトラム、今日の中京記念に出るよね、小牧で。前走が谷川岳Sなんだ」
 「そうなんですよ。うちの社長がね、単勝を買ってくれって、5千円あずかってきた。おれも2千円、ピークトラムを買う」
 「ピークトラムって、頂上への電車っていう意味だなあ。マツオさん、その電車に乗って頂上へ行っちゃったんだ」
 「ここに座って、マツオさん、どこかで中京記念を見てるかなあって、そんなことを思ってたら、リョウさんが入ってきたんですよ」
 「雲の上から手を振ってるかもしれない」
 と私が言った。

 午後3時半すぎ、私もピークトラムの単勝を買い、ナベちゃんと頭上のテレビを見ていた。
 中京記念の16頭がゲートを飛びだした。スタートもダッシュも決めてピークトラムは3番手につけ、順調にレースを進めて直線へ向くと先頭に立った。これは勝つ流れと思ったとき、小牧の必死なステッキに応えていたピークトラムを、ガリバルディが4分の3馬身だけ差してしまった。
 ナベちゃんも私も黙っている。私はテレビに、空が映ってほしいなあと画面を見上げていた。
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