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第264便 寸又峡

2016.12.14
 東京競馬場へ行ったときの私は、いちどはメモリアル60スタンドの3階へ行き、道をへだてて装鞍所が見える窓辺に立つ。レースの時間が近づいてきた馬たちが鞍をつけ、木立ちのまわりを厩務員に引かれて歩いている。その景色が私の好きな絵なのだ。
 もうひとつ、いちどは必ず行く場所が、けやき並木のベンチだ。そこに腰かけ、しばらくぼんやりする。それが私の幸せなのだ。

 10月30日、天皇賞の日、くもり日だが雨の心配はない。東京7R3歳上500万下が終わったあと、8R河口湖特別のパドックはパスして、けやき並木のベンチに腰かけた。ふたり分ほどの空間があって、坊主頭で小太りの老人がスポーツ紙を読んでいる。たぶん七十歳くらいかなあ。それでもおれよりずいぶん若いのだと、そんなことを思い、ちょっと表情がきょとんとトボけていて、即座に「みみずくさん」と綽名をつけた。
 また今年も競馬場で、けやきの葉っぱの秋の色を眺めているわいと見上げているのは、この夏に病魔に襲われて入院生活となり、元気ならば必ずいる筈の今日の競馬場に不在の友だちが頭に浮かんだからだ。
 「食べてよ。甘いんだ」
 突然にみみずくさんが、私に小さなみかんをくれた。
 「ありがとう。どうも。」
 こんなこと、最近はめったになくなったなあと感じながら、みかんの色を私は見つめ、
 「どちらからですか」
 と質問した。
 「歩いてくるの。三十分ぐらい。近いんだ」
 「おひとりで?」
 「いつもひとりだよ。もう長いこと、競馬場じゃひとりだね」
 「馬券、上手ですか?」
 「馬券に上手も下手もないんじゃないの。最近はハズれてばっかりいると、仕方なくというか、外人馬券を買うの。さっきの7Rも、ムーアとルメールを買ったら来たよ」
 「おれもときどき、ルメールとデムーロ馬券で救われる」
 と私はみかんの皮をむき、
 「わたしはハタチ前から引退するまでペンキ職人だったけどな、こうして競馬場にいてさ、いつもな、生きてるってのはさびしいもんだと、そう思うの。笑っちゃうね」
 そう言ってみみずくさんもみかんの皮をむきはじめた。
 しばらく会話をし、腰をあげてから私は、
 「おれも、生きてるってのはさびしいって、ひとりで笑っちゃう」
 そう言ってみみずくさんと笑顔を交わし、そこを離れた。

 天皇賞は1着がムーアのモーリス。2着がデムーロのリアルスティール。外人馬券なので、みみずくさんは当てたかなと私は思った。
 地下馬道で私は、レースから戻ってきたモーリスを間近で見つめた。514キロの馬体から凄みがあふれ、獰猛とか洗練とかいう言葉が浮かんでくる。
 その日の夜、ホテルニューオータニで「社台グループ謝恩会」があり、鶴の間は1,500人の出席で埋まった。リアルスティールの矢作芳人調教師と会ったので、
 「あれれ、いないなと思っていたら、ずいぶん遅れてリアルスティール、パドックに登場しましたよね。」
 そう聞いてみると、
 「装鞍所で荒れていて鞍つけに苦労してたんですよ。ドバイで勝ったときも同じ状況でした」
 というのが矢作師の返事で、私は競馬の現場の苦労を教えられた。

 11月1日から2泊3日で私は淡路島にいた。南あわじ市に住む歯科医の佐藤圭さんがキャプテンの、競馬を愛してしまった9人の「あわじ会」があり、年に一度、私が一時間ほど競馬を勝手に語り、そのあと酒をのんで競馬の話でもりあがるというわけなのだ。今年で4年目、うれしく続いていて、私が東京競馬場で会ったみみずくさんの、「生きてるってのはさびしいもんだ、笑っちゃうね」を伝えると、「ほんとにそうだ。馬券で元気になってる」と佐藤圭さんがうなずいた。

 11月4日、川崎競馬場へ行った。私の仲よしの河津裕昭厩舎のコスモス(父フリオーソ、母カーラ、母の父ゴールドアリュール)が、15時30分発走の第2R、スパーキングデビュー新馬(1400㍍)に出走するので応援に行ったのだ。
 第1Rの前に着いてスタンドに腰をおろした。昨日は3つのGⅠレースがあるJBC競走で入場者が2万8,718人、売り上げ48億7,402万2,850円(地方競馬の一日あたりの売り上げレコードを更新)だったと新聞で読んでいた私は、まだ人があまりいないスタンドを眺めまわした。
 第2Rのパドックにコスモスが登場する。この夏に腹痛と下痢が悪化し、死んじゃっても仕方ないなあという状態にまでなったコスモスなので、しっかり歩いているのを、私はしっかりと見た。
 コスモスの馬主の岡田繁幸さんもいて、いっしょに1着を願った。息がつまり、緊張してレースを見つめた。コスモスがしっかりと走って1着だったので、私はしっかりと空を見た。

 11月6日の朝、52歳の森正樹さんの運転する車が私の家に来た。78歳の原田さんと76歳の井沢さんが車に乗っていた。その車に私が参加する。
 9月に正樹さんから、「うちのおやじ、金嬉老事件というのがあった寸又峡の吊り橋を4人で渡った思い出を何度も言ってた。タニノハローモアって言ったのが最後の言葉。その年のダービー馬だった。そのときのメンバーで寸又峡へ行けないものですかね。おやじ、あの世でよろこぶ」という電話をもらい、それを実行することになったのだ。
 当時、正樹さんの父の景一氏は製薬会社員。原田さんは薬業界新聞記者。井沢さんと私は薬品問屋勤務。競馬仲間で寸又峡へ旅したのだった。
 大井川鉄道の新金谷駅で三人がSL急行に乗り、正樹さんは終点の千頭駅まで車で。そこから寸又峡へ行き、一泊して夜明けに四人で吊り橋を渡った。景色を眺める私にみみずくさんが浮かび、もし会えたら、寸又峡の話をしたいと思った。
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