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烏森発牧場行き

吉川良 烏森発牧場行き

第282便 フツウノアルバム

 明日は次兄の三年忌だという夜、ちびちびと酒をのみながら、もうずいぶん、アルバムというのを見ていないなあと思い、納戸の奥に積まれたままのアルバムの山から、気ままに5冊ほど抱えて酒に戻った。

 5冊のなかに1967(昭和42)年のものがあり、モノクロ写真の一枚に、「おお!」と声が出そうになった。競馬場のスタンドを背景に、父、長兄、次兄、私が並んでいて、
 「昭和42年11月3日。森安重勝のメジロサンマンが目黒記念を勝った日。府中にて」
 と説明が書いてある。シャッターを押したのは、カメラ好きの従兄弟だろう。競馬場での家族写真は、たぶん、これ一枚しかないだろうと、私は貴重品を見つけた気分になった。
 どんなに歳月が流れようとも忘れられない、父についての母から聞いた話がある。
 「お父さんはね、ろくに学校も行けずに、10歳で薬屋の小僧になったでしょ。名前が平作で、ヘイサクのサクで、サクッサクッって呼ばれながら働いたわけよ。
 同じように、名前が孝で、タカッタカッと呼ばれた小僧がいっしょだったの。それで上の人が、ふたりを同時に呼ぶときは、サクタカ、サクタカって呼んだのね。
 めったに笑わないお父さんが、競馬の新聞を読んでいて笑ったのよ。昔の小僧時代のおれと孝が馬になってダービーに出るぞって。
 何だろうって思って聞いたら、ダービーにサクタカという馬が出るって。それでお父さん、サクタカを応援するんだって、あんまり行かない競馬場に行ったの」
 その話を思いだして私は、仕事部屋にある日本ダービー史を取ってきて、サクタカを調べた。
 サクタカは1955(昭和30)年5月29日、第22回の雨のダービーに野平祐二騎乗で出走。24頭立て11番人気で7着。勝ったのは二本柳俊夫騎乗の10番人気オートキツだ。
 父は1900(明治33)年生まれだから、その年は55歳。私が高校を卒業した年だ。
 小僧でがんばって、25歳で薬品問屋として独立をし、1969(昭和44)年に68歳で旅立つまで、ひたすらはたらく人生だった。そのはたらきづめの人生のなかで、酒とプロ野球の巨人軍と休日の馬券を愛したのだったが、サクタカという馬のダービーを競馬場まで見に行ったという一件は、父の人生での、ユーモアあふれる最高の作品といった気がして、私は酒のグラスを目の高さにまで持ちあげて乾杯をした。

 私はレポート用紙をテーブルに置いた。「ヒロヨシ」と書く。長兄の名は弘、ヒロシ。ヨシカワヒロシからヒロヨシ。その名から長兄が、ヒロヨシという馬がオークスに勝ったときの興奮を何度も言っていたのを思いだしたのだ。
 私は仕事部屋から中央競馬レコードブックを持ってきた。
 古山良司騎乗のヒロヨシがオークスを勝ったのは1966(昭和41)年。昭和2年生まれの長兄は39歳だった。
 昭和6年生まれの次兄の名は毅、タケシ。みんなが競馬好きのわが家でも、とびっきりの馬券好きだった。「タケシバオーはおれの馬」と夢中の次兄と、1968(昭和43)年の第35回日本ダービーを見に行き、宮本悳のタニノハローモアに負けて2着だったが、森安弘明のタケシバオーへ、
 「タケシ!タケシ!」
 という次兄のわめき声は、ひとつの事件のような私の思い出である。
 「タケシバオー。タケホープ」と私はレポート用紙に書いた。タケシバオーのダービー2着のくやしさを次兄は、1973(昭和48)年の嶋田功騎乗のタケホープの単勝馬券でリベンジしたのだった。
 両親と早くに死別し、父が引きとって私らと兄弟同然だった従兄弟は1925(大正14)年生まれ。名は実、ミノル。
 「ミノル」と私はレポート用紙に書いた。
 1969(昭和44)年、第36回ダービーで大崎昭一のダイシンボルガードが勝ち、保田隆芳のミノルはクビ差の2着だった。1番人気の嶋田功のタカツバキがスタートしてすぐに落馬し、スタンドが騒然としたダービーだった。従兄弟はいつまでも、タカツバキの落馬がなければミノルがダービー馬だったのにと言い張っていた。
 私の家では、おふくろも姉も妹も馬券を買った。1905(明治38)年生まれの母の名はトク。
 「トクザクラ」と私はレポート用紙に書いた。
 中央競馬レコードブックで調べる。1971(昭和46)年の朝日杯3歳S(当時の年齢表記)や、牝馬東京タイムズ杯を勝ったトクザクラの主戦騎手は田村正光。おふくろのスターは田村正光だった。
 「ハクセツ。ジョセツ」と私はレポート用紙に書いた。1934(昭和9)年生まれの姉の名は節子、セツコ。姉は新人騎手だった岡部幸雄騎乗でいくつもの重賞を勝ったハクセツとジョセツで馬券が当たりまくった。
 「ヒカルイマイ」と私はレポート用紙に書いた。
 1971(昭和46)年、第38回ダービーで勝ったのは、田島良保騎乗のヒカルイマイ。東京競馬場のスタンドで、私は「イマイ!イマイ!」と叫びまくった。
 1949(昭和24)年生まれで、新潟出身の若者と私は群衆のなかにいたのだ。彼は父が仕事で頼りにしていた働き手で、今井克春という名。初めての競馬場で、ヒカルイマイの単勝に1万円を賭けていた。

 4月1日、朝早く、私は鎌倉駅で電車に乗った。寺まで、二つ乗り換え、2時間半は乗らねばならない。
 窓の外に時折、さくらの花が現れる。父も母も、長兄も次兄も従兄弟も、姉も、この世にいないと思いながら、馬券のことで騒いでいた家族の景色が浮かんだ。
 社会の片隅で、普通に暮らしていた家族だけれど、その普通が、光あふれるすばらしい景色だったと感じて私は、誰もがスマホを触っている車中で、もし自分が馬主になれたら、フツウノアルバムという名の馬を走らせたいと思った。
 「フツウノアルバム」と私は頭のなかに書いた。
 寺で坊さんの読経を聞きながら、「今日は大阪杯だよ」と祭壇にいる写真の兄に心で知らせた。