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烏森発牧場行き

吉川良 烏森発牧場行き

第284便 どうして?

 1983(昭和58)年5月のこと、東京の港区六本木の交差点ですれちがった常盤新平さん(翻訳家。1986年に「遠いアメリカ」で直木賞受賞)が、いい時に会ったと足を止めた。今夜、この近くで、社台ファームのアンバーシャダイの春の天皇賞を勝った祝いの会があり、招かれているのだが、急用が発生して行けなくなり、社台の人に電話しておくから、代わりに出席してほしいと常盤さんが言うのである。

 代理でいいのかなと思いながら、面白そうだなと思い、あつかましいかなとも感じつつ、ビルの地下の、ピアノがあるサロンへ行った。
 10数人の集まりだった。社台ファーム社長の吉田善哉さんがいて、その両どなりの席が空いていて、私はそこに案内された。あとで知ったが、ボスのとなりを、誰もが敬遠していたのだった。
 ピアノの音がして開宴。大橋巨泉さんが進行役をしたが、挨拶とかスピーチのない食事会といった空気である。
 「どこかで会ってるね」
 と吉田善哉さんが私のことを言った。
 私は1966(昭和41)年から2年、東京に本社のある宝石会社の札幌営業所勤務で、営業マンとして北海道全域へ出張していた。室蘭や函館へ行く途中の、列車から見える白老あたりの牧場の景色は、競馬好きの私には夢の絵だ。休日に札幌開催の競馬場へ行くのと、三才の娘をつれての牧場への遠足が、そのころの私の幸せだった。
 よく私は白老の社台ファームの草むらで娘と弁当を食べ、まだ鎌で草を刈ったりしている牧場の人たちの労働を眺め、のんびりと草を食っている馬たちを眺め、ときどき見かける身体の大きな男が、大きな声で何か怒っているような風景を見たりしていた。
 その身体の大きな男が、社台ファームを率いる吉田善哉という人、と知ってはいたが、恐れ多くて遠まきにしていた。
 そのことを私が言うと、
 「ああ、白老だ」
 と吉田善哉さんはうれしそうに言い、私に握手をしてきた。

 私は1979(昭和54)年のグリーングラスが勝った有馬記念の観戦記を雑誌「優駿」に書き、それから「優駿」の仕事をもらっているけれど、牧場ではたらく人や、牧場という現場を伝えるページが、競馬の雑誌なのに少なすぎるとか、酔った勢いでナマイキを言わせてもらった。
 あくる日の朝8時過ぎ、
 「吉田です」
 とかかってきた電話は吉田善哉さんからで、
 「昨日の話はおもしろかったね。もっと話をしたいので、今日、夕食をしたいと思って」
 と言うのだった。
 そんないきさつがあって、社台ファームが運営する共有馬主クラブの月刊会報誌「サラブレッド」に、牧場と会員とのつながり、会員どうしのつながりをテーマにした「繋」というタイトルの連載が始まった。
 1983年10月号を第1回とし、現在は2018年8月号の第419話へと継続している。
 長い年月、会員が何人かで作るグループに出席したり、会員たちとの手紙のやりとりが続いたり、年に三度の牧場ツアーの夜に苫小牧で酒をのんだり、競馬場やウインズで会ったりと、無数の会員たちとのつきあいが生まれた。

 人は当然、老いて、衰えたり病魔におそわれたりして、人生を閉じる。すると故人の家族の誰かしらが、
 「お願いがあるんですけど」
 と私に電話をしてくることが多い。
 故人の身うちにしても、親類の人たちにしても、どうして故人があんなにも競馬が好きだったのか、よく判っていない。普通、競馬が好きだというと、馬券を買っている人ということなのだが、故人が競馬を好きで仕方なかったのは、そういうことでもないらしい。
 その、どうして?を、通夜での弔辞か、告別式のあとの食事のときとか、親類の人たちとかに、うまく伝えてもらえないだろうか、という頼みなのである。
 電話を受けて私は、その頼みが、例えば妻として、子として、当然の頼みだというふうに理解するのだ。あの人、どうしてあんなに競馬が好きだったのかと、その不思議が、周囲の人から向けられているのを知っていたので、それにたいして少しでも答えたいと、残された家族は思うのだろうと。
 会員の殆どの人は、一所懸命にはたらいて、貯金をして、誰に何と言われようと、例えば1頭の価格の40分の1口に出資して、その馬との出会いに願いを寄せ、その馬の競馬場での走りに感動するのだ。
 得をするのか、損をするのかわからない。でも、たとえ損をしたとしても、愛馬のレースに立ち会えるのは、人生のかがやき。
え?人生のかがやき?どうして?
 ケイアイノーテックが勝った2018年のNHKマイルCの翌日、三鷹市の病院へ見舞いに行った田中さんが浮かんでくる。
 田中さんは共有馬主クラブには入らなかったが、年に一度の、北海道の牧場めぐりを楽しみにしていた。私とビッグレッドファーム明和牧場で会い、手紙のやりとりを始めたのは、田中さんが銀行を定年退職した2009年だ。
 「わたしが競馬を知ったのは、たまたま銀行の独身寮が府中にあったからですね。貧乏育ちで遊びを知らない人間だから、ひとつぐらい遊びがあってもいいよなって、馬券を始めたんです。
 50歳のころ、初めて夏休みに、レンタカーで牧場めぐりをして、それから病みつきになり、1年に1度は日高地方へひとり旅。牧場にいる馬を見ていると、ほんと、救われるんです」
 と言っていた田中さんを私は忘れない。
 吉川さんに会いたいと言ってるんです、と田中さんの奥さんが電話してきて見舞いに行った。
 6月の初めに田中さんは人生を閉じた。田中さんの娘さんから電話で、どうして父が競馬を好きで仕方なかったのか、通夜で話をしてほしいと頼まれた。
 「どうして?」を私は、通夜の弔辞で言った。