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烏森発牧場行き

吉川良 烏森発牧場行き

第286便 厚真の一本道

 2018年9月10日、朝7時、目をさまして私はベッドから手をのばしてカーテンをあけ、雨あがりらしい空を眺めた。薄い青のひろがりにトンビが現れ、すぐに消える。

 「ゆめうつつ」
 と心で言って、夢現、と心に漢字で書いてみる。夢だか現実だかわからないようにぼんやりしていること。
 本当にそうなのだ。夢を見ていたのにはちがいないのだけれど、それがしっかりと今日のことのように頭に残っているのだ。
 場所は北海道勇払郡の吉田牧場である。母家に近いカシワの木に馬がつながれていて、私が青草をかかえて行って、馬の前に置いているのだ。そこへ畑からトマトをもぎってきたミツさんが通りかかって、ごくろうさま、とおだやかな声をかけてくれた。
 私が吉田牧場で1年を過ごしたのは1984年。47歳だった。ミツさんは70歳ぐらいだったのかなあ?吉田牧場を営む吉田重雄さんの母だ。
 その馬の名はラッキーキャスト。いつもは、カシワの木につながれているのはアテ馬。アテ馬でもないラッキーキャストがそこにいた理由が、私にはよくわからない。
 吉田牧場で暮らしはじめのころ、「ぼくにも牧場の仕事を何かやらせてください」と重雄さんに言ったら、「アテ馬に青草でもやってもらいましょうかね」ということだった。
 カシワの木につながれたアテ馬に青草をやりながら、ときどき離れたところからアテ馬を観察するようになったのは、カラスが飛んできてアテ馬の背中にとまっても、アテ馬が騒がないのが不思議だったからだ。そのうち、カラスがアテ馬のタテ髪を抜き、くわえて飛び去るのを何度も見かけた。
 そのことをミツさんに言うと、
 「カラスがタテ髪を使って巣を作るの」
 という答えで、私は一冊の絵本を読んだような気持ちになった。
 ラッキーキャストはアテ馬ではないけれど、まだ種牡馬として決定はしていないようだった。父マイスワロー、母タイプキャスト、母の父プリンスジョン。タイプキャストの娘のプリティキャスト(父カバーラップ二世)は秋の天皇賞も含めて8勝したし、ラッキーキャストも期待されたが不出走で終り、USA21勝の母の血統を惜しんで複雑な立場にいたのだろう。
 ミツさんとラッキーキャストの夢。それがしっかりと映っている頭での朝食のとき、その話をしていないのに、
 「昨夜、吉田牧場の夢を見たわ。きれいな景色で、重雄さんもにこにこして」
 とかみさんが言った。

 9月6日午前3時8分ごろ、北海道胆振地方を震源とする地震が発生し、厚真町で震度7、むかわ町と安平町で震度6だったのだ。
 6時すぎに私は札幌の友だちからの電話でそれを知り、厚真や安平や、門別や新冠や浦河や、苫小牧や室蘭の知りあいに電話をかけたが、かかったりかからなかったり。
 「言葉にならない。恐怖で、言葉にならない」
 という女性の声が私に染みこんだ。
 早来から厚真を通って鵡川へ、そして門別へ新冠へ静内へ、そして三石へ浦河へと牧場を訪ね、そこでの人間模様を綴るのが私の人生の仕事だった。
 30年ほど、私は何度、厚真町を通り抜けたろう。運転免許のない私は、誰かしらの運転の助手席にいた。テレビで厚真の土砂崩れを見ながら、その誰かしらの名前を思いだしては書きとめたり、私がプロデュースをしていたクラシック音楽祭を、厚真の高校で開催したときのことを思いだしたりした。
 安平町早来のつらい景色もテレビに映り、崩壊した早来神社の映像を見たりして、私もかみさんも黙りこみ、その沈黙がはたらいて、私にはラッキーキャストとミツさんの夢、かみさんには吉田牧場の景色の夢になったのだろう。
 私が仕事部屋で宙を見つめていると、有馬記念のパドックを歩くフジヤマケンザンが見えてきたのだった。
 そうそう、ラッキーキャストが種牡馬になり、息子のフジヤマケンザンがGⅢ中日新聞杯を勝ったときの、雑誌「優駿」に載った吉田重雄さんのコメントが面白くて、そのコメント祝いという酒を新橋の居酒屋でのんだよなあと思いだし、1992年5月号の「優駿」をひらいた。
 「父親のラッキーキャストはエビハラ(屈腱炎)でレースを使えなかったんです。まあ、ふつうなら肉になるところでしょうが、その母親のタイプキャストはアメリカの一流レースを勝ちまくった名牝で、プリティキャストを出したりして、その昔は泣く子も黙る血統だったでしょう。
 最近ではすっかり忘れられた血統になってしまったけど、うちがなけなしの全財産を注ぎこんで買った牝馬でもあり、こいつが小僧のときから、走る走らないにかかわらず、将来は種牡馬にするつもりだった。
 まあ、砂利のなかからダイヤモンドを拾うようなもんで、ロマンを通りこして執念でしかなかったですよ。
 といっても、毎年うちの牝馬数頭に付ける程度。数少ないチャンスをものにして、よくぞ活躍馬を出してくれたもんだと思います。
 ワカクモ(テンポイントの母)?ダービー馬オペックホースの母親ホースジョーといっしょに、元気に余生をおくってますよ」
 というのが重雄さんのコメントだ。
 私は1年のほとんど、ワカクモとホースジョーに、朝か夕方、あいさつをしていたなあ。

 1984年の私の記録ノートをめくってみた。
 10月半ば、荻伏牧場の斉藤卯助さんの訃報があり、通夜へ吉田重雄さんの車に。畑しか見えない厚真町の一本道に光あふれて、と書いている。その告別式の帰りは写真家の内藤律子さんの車に乗り、夜、厚真の一本道で車が故障。対向車が来たら相談しようと待った、と書いてある。あのころ、まだケイタイ電話はなかった。
 山肌が崩れ、住宅が土砂に巻きこまれたテレビ映像を見ながら、私は一本道を思いだしている。