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第4回 消えなかった情熱の炎

2008.08.25
 完全にあきらめていた落とし物が,長い年月を経て,手元に戻ってきたような感じ。といえば,わかっていただけるだろうか。

 6月1日,ディープスカイが優勝したダービー直後の第11レース,東京競馬場では富嶽賞のスタートが切られた。ファンはフラムドパシオンのことを忘れてはいなかった。単勝2.1倍。2年3か月ぶりに実戦復帰する競走馬への期待としてはあまりに大きすぎる支持だった。

 それほどフラムドパシオンの強さはファンの脳裏に焼き付いていたのだ。クロフネを父に持つ牡5歳馬。実戦を走るのは06年3月のUAEダービー(アラブ首長国連邦ナドアルシバ競馬場)以来だった。

 フラムドパシオンの強さが「伝説」になったのは05年12月,中山競馬場のダート戦だった。2歳500万クラスの1800メートル戦。北村宏司騎手を背にしたフラムドパシオンは4番手から徐々に進出。3コーナーすぎで先頭に立つと,あとは独走に次ぐ独走。2着に2秒4(およそ12馬身)もの大差をつけて圧勝のゴールインをした。優勝タイムの1分52秒7は今も中山競馬場の2歳レコードタイムとして残っている優秀なものだった。

 06年2月,続くヒヤシンスS(東京競馬場ダート1400メートル)も2着に3馬身半差をつけて快勝し,アラブ首長国連邦ドバイへと旅立っていった。ドバイではUAEダービー(ダート1800メートル)に出走,きわどい2着争いに加わり,惜しくも3着に終わった。のちに米国の年度代表馬になるインヴァソールが,フラムドパシオンから4分の3馬身遅れの4着だった。ドバイの地でフラムドパシオンの実力が「世界レベル」であることを証明した。

 しかし,さあこれからという時に,フラムドパシオンを悪夢が襲った。右前脚の屈腱炎が見つかったのだ。「不治の病」とも呼ばれる難病だ。生産牧場であるノーザンファームからの依頼を受けた日本中央競馬会の競走馬総合研究所は当時の最先端治療に取り組むことになった。

 屈腱炎の治療としては日本で初めて行う「再生医療」だった。フラムドパシオンの胸骨から「幹細胞」を摘出する。それを培養で増殖させた後に患部へ注入する。そうすると,幹細胞は腱細胞に変化し,炎症で失われた部分が再生される。もともと自らの体内から採取した細胞なので,拒絶反応などの副作用も抑えられる。

 幸いにも屈腱炎は1年ほどで治癒したが,別の問題が出て,ここまで復帰が延びた。

 2年のブランクはフラムドパシオンに少なからぬ悪影響を及ぼしていたはずだが,絶対能力の違いで,そんな不利も克服してしまった。2着に4馬身差をつける完勝で富嶽賞を制し,鮮やかに復活をアピールした。

 「走る馬ほど故障しやすい」と言われる。自らのスピードが故障のリスクを高めているのだ。まして腱の故障は完全治癒がむずかしいとされてきた。ナリタブライアン,ダンスインザダーク,サクラローレル,マヤノトップガン,サニーブライアン,アグネスタキオン,クロフネ,タニノギムレット,ネオユニヴァース,キングカメハメハ,ソングオブウインド。近年だけでもこれだけの名馬が屈腱炎が原因で,現役生命を絶たれ,引退へと追い込まれていった。

 これまで屈腱炎と聞くと,なすすべもなく引退を惜しみ,ただ見送るしかなかったが,これからは屈腱炎と聞いても多少は復帰の希望を持ってもいいことになった。オフサイドトラップなど屈腱炎を克服して実戦に復帰した頑張り屋がこれまでもいるにはいたが,3,4戦すると再発することも多かったという。

 フラムドパシオンに施された再生医療が,これまでの屈腱炎治療とどう違うのか。「情熱の炎」という意味の馬名フラムドパシオンの走りには,ファン以上に熱い医療関係者の視線が注がれている。


JBBA NEWS 2008年7月号より転載
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