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第31回 ヒサトモの恩返し

2013.10.15
 第58代ダービー馬トウカイテイオー(父シンボリルドルフ、母トウカイナチュラル)が8月30日、繋用先の北海道安平町の社台スタリオンステーションで急死した。25歳。急性心不全だった。
 弾むようなフットワーク、ざんばらでワイルドなたてがみ、見た目も華やかなスターホースらしいスターホースだった。

 安田隆行騎手(現調教師)とのコンビでデビュー以来無傷の6連勝でダービーを制覇。ダービーのレース中に骨折し、4歳4月に戦列復帰した。新しいコンビは岡部幸雄騎手。初めて追い切りに乗った日、「地の果てまで走っていきそう」と、その感触を語った。

 復帰戦の大阪杯を快勝したが、続く天皇賞・春ではメジロマックイーンに敗れて5着完敗。ぶっつけで臨んだ天皇賞・秋もハイペースに飲み込まれて7着に終わった。連敗で地に墜ちた評価は次のジャパンカップで返上した。豪華メンバーがそろった中、豪州のナチュラリズムとの壮絶な競り合いを制し、父シンボリルドルフに続く、父子2代制覇をかなえた。

 ファン投票1位で選ばれた有馬記念だったが、ジャパンカップ激走の反動か。見せ場もなく11着に敗れた。

 その後体調を崩したトウカイテイオーの復帰は遅れに遅れた。ようやく出走態勢が整ったのは1年後だった。364日後の有馬記念でトウカイテイオーはようやく復帰を果たした。これが5歳初戦。1年ものブランクがある競走馬に期待するのは酷だった。ところがトウカイテイオーは驚くような走りで競馬の常識を覆した。田原成貴騎手のステッキに応え、前を行くビワハヤヒデを並ぶ間もなくかわすと、なんと先頭でゴール。鮮やかに復活してみせた。結果的にこのレースが引退戦となり、通算12戦9勝の成績を残して現役を終えた。

 挫折と復活を繰り返した波瀾万丈の競走馬生活。そのハラハラドキドキがファンの心を揺さぶった。
 だが僕がトウカイテイオーに興味を引かれたきっかけは、誕生にまつわるエピソードのせいだった。

 トウカイテイオーの馬主、内村正則さんはトウカイテイオーの父シンボリルドルフの種付権利を手に入れた。目的はシンボリルドルフと同期のオークス馬で持ち馬のトウカイローマンとの「夢の配合」を実現するためだった。しかし1987年春、トウカイローマンは現役を続行した。代わりにシンボリルドルフと交配されたのはトウカイローマンの妹トウカイナチュラルだった。姉より一足早く繁殖生活に入っていたことでピンチヒッターを務めることになった。

 1988年4月20日、トウカイテイオーはこうして誕生した。

 ピンチヒッターの妹からダービー馬が生まれたことをまったくの偶然と片付けられない背景がそこにはあった。
 馬主になったばかりの頃、内村さんは1頭の牝馬と巡り合う。名をトウカイクインといった。父アトランテイス(IRE)、母トツプリユウの血統を持つ1966年生まれの孝行娘は56戦6勝という優秀な成績を残した。内村さんはトウカイクインの母系にヒサトモの名前を見いだした。

 1937(昭和12)年、第6回日本ダービーを牝馬として初めて制したのがヒサトモだった。ヒサトモの底力に魅せられた内村さんはヒサトモのDNAを受け継ぐ牝馬を意識して手に入れた。途絶えそうになっていたヒサトモの血統がこうして救われた。

 ヒサトモ(1934年生まれ)→ブリユーリボン(1945年)→トツプリユウ(1959年)→トウカイクイン(1966年)→トウカイミドリ(1977年)→トウカイナチュラル(1982年)とつながれてきた牝系はついにトウカイテイオーという形で結実した。ヒサトモのダービーからトウカイテイオーのダービーまで54年の歳月が過ぎていた。回り道であったかもしれない、時間がかかり過ぎたかもしれない。しかし日本で初めてダービー馬になった牝馬ヒサトモは、その子孫からダービー馬を送り出した。この牝系を守り抜いた内村さんに栄冠がもたらされたのは当然のことだと思える。ヒサトモの恩返しだ。

 トウカイテイオーは後継といえる名馬を送り出すことはできなかった。しかし、母祖ヒサトモのように何年後かに名馬の血統表に名を刻んでいるような気がする。
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