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第66回 「名人」

2016.09.13
 「ターフの魔術師」「名人」と呼ばれた伝説のジョッキーが亡くなった。武邦彦さん。8月12日、病気のため77歳の生涯を閉じた。
 若い競馬ファンにとっては「武豊騎手のお父さん」かもしれない。しかし武邦彦さんの現役時代を辛うじて知っている僕らの世代にとっては、やはり武豊騎手は「タケクニ2世」なのだ。

 騎手時代に残した実績を調べ直してみると、いろいろなことに気づき、驚かされる。

 1980年1月7日、阪神競馬第4レースでインタースマッシュに騎乗して1着になり、通算1,000勝を達成した。1957年3月にデビューし、24年目での大台到達だった。通算1,000勝は当時、史上5人目の記録で、保田隆芳、野平祐二、加賀武見、郷原洋行に次ぐ記録。関西を本拠にする騎手としては初めての記録達成だった。

 1985年に引退するまで通算1,163勝を挙げたが、一度も最多勝騎手(リーディングジョッキー)になったことがないのも驚きのひとつだ。1972年に68勝、1973年に70勝して、いずれも2位だったのが最高の順位。どちらの年も最多勝に輝いたのは福永洋一だった。そう福永祐一騎手の父親だ。40年あまり前、福永パパと武パパが現役の騎手として勝ち負けを争っていたわけだ。

 武邦彦騎手は遅咲きだったことでも知られている。

 勝利数でトップ10入りしたのはデビュー7年目の1963年だ。35勝を挙げ、9位に顔を出した。そして現在のGⅠレースである8大競走で初めて勝利を挙げたのが、アチーブスターとコンビを組んだ1972年の桜花賞だった。なんとデビュー16年目である。この年はロングエースに騎乗してダービー制覇も果たし、さらにはアチーブスターでビクトリアカップ(現秋華賞)も制し、それまでのうっぷんを一気に晴らすかのような活躍を見せた。

 息子の豊騎手、幸四郎騎手にも通ずる当たりの柔らかい騎乗スタイルが特長だった。馬の負担が少なく、スタミナのロスがないから長距離レースで「名人芸」が生きた。3000㍍の長丁場、京都競馬場で二度の坂越えをする菊花賞で歴代2位タイの3勝を挙げている。1973年のタケホープ、1974年のキタノカチドキ、そして1978年のインターグシケンだ。

 雑誌の対談などによると、ご自身はインターグシケンの菊花賞を会心の勝利として挙げておられるが、タケホープもまた「してやったりの競馬だった」と振り返っている。

 断然の1番人気は、あのハイセイコー。対するタケホープはダービー馬なのに6番人気にすぎなかった。ダービー優勝後の京都新聞杯で8着に惨敗。おまけに主戦だった嶋田功騎手が負傷で乗れなくなった。そんなことも評価を下げた原因になった。

 だが結果はゴール寸前でハイセイコーをハナ差で捕らえて優勝。見事に代打の役割を果たした。この時、武さんはけがで入院している嶋田騎手のところまで出かけ、タケホープの特長などを聞いている。事前準備は怠りなかった。

 通算1,163勝のうち重賞レースは80勝を数えるが、初重賞制覇はデビュー3年目だった1959年のアラブ大障碍・春というから驚く。6頭立ての3番人気、7歳牡馬のハチサカエに騎乗し、京都競馬場の芝3100㍍を当時のコースレコード3分39秒3で優勝した。障害レースでは174戦し22勝を挙げている。

 障害レースにも騎乗していたせいか、けがに苦しんだという。足、両鎖骨、手、腰、膝、肋骨を骨折したことがあると告白している。

 通算1,000勝、3冠制覇。輝かしい実績を残した騎手時代。調教師に転身してからもバンブーメモリーで安田記念とスプリンターズS、メジロベイリーで朝日杯3歳S(現朝日杯フューチュリティS)とGⅠレース3勝を挙げた。どんなに実績を積み上げても、物腰は柔らかく、僕らのような年下の記者にも誠実に対応してくれた。

 月曜日のスポーツニッポンに掲載された「名人解説」は愛読するコラムだった。騎手の立場から書かれたレース分析は秀逸で、読むのを楽しみにしていた。

 まだまだ競馬の奥深さを教えていただきたかった。安らかにおやすみください。
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