「歴史が好きか?」と聞かれれば、ハッキリ「NO」と口にする。昔っから、過去に起こったことを学ぶより、この先どうなるのか、と考える方が好きだった。さらに、こうも思っていた。終わったことをあとで知っても仕方ない、と。
ところが、ひょんな会話をきっかけにして、馬産地の過去を調べるようになった。今なおちょっとした興奮状態にある。
面白いのだ、実に。お年寄りの話が、そして馬産地の成り立ちが。
前回ご登場いただいた中地ハルエさんは新冠町の朝日という集落に暮らしている。
この一帯になぜ馬産が根付いたかといえば、大元をたどれば、どうやら新冠御料牧場(のちの新冠種畜牧場、現在の家畜改良センター・新冠牧場)の存在に行きつく。
話は少し飛ぶ。静内の二十間道路はご存じか。道の両側に桜並木がズラッと続く、道内でも有数の花見の名所である。
その二十間道路を山側へ抜けると、構えの大きな門が見えてくる。門柱に目をこらせば、「家畜改良センター・新冠牧場」の名前があって、どうやらこのあたりが新冠御料牧場のかつての入口だった。
歴史の教科書のようになってしまうが、その成り立ちを紹介してみよう。
江戸時代の1799年、幕府は日高地方南部に60頭の南部馬を導入した。使役を目的としていたが、対象の期間以外は山野に放牧された。すると、自然に繁殖する。数は次第に増え、江戸末期には数千頭の大群になった、と伝わっている。
明治5年、近隣の山林や原野、およそ7万ヘクタールを囲い、繁殖した野生馬をそこに2000頭ほど追い込んだ。これが、そもそもの牧場の始まりである。
明治17年には宮内省の所管となり、同時に洋種牡馬を導入した。迎えた明治20年、新冠御料牧場に名前が変わった(筆者注:御料とは「皇室所有の」の意味)。ここから先、太平洋戦争後の昭和22年までのあいだ、つまり半世紀以上も、帝室御用馬の生産と馬匹改良が新冠御料牧場では行われたのである。
関連資料を調べると、牧場の敷地は何度も増減を見ている。
それしにても7万ヘクタールとは、いったいどれほどの大きさなんだろう。先ほど、門柱に「新冠牧場」の名前がある、と書いた。ここで「ン?」と疑問を感じた人はなかなか感覚が鋭い。二十間道路は「静内」にある。なのに、どうして名前は「新冠」なのか。気づくとそこで首をかしげてしまう。
ざっくり答えておけば、御料牧場の敷地は静内と新冠をまたいでいた。それくらい広大であり、全体像は誰もが想像できない。昔の地図を確認すれば、静内川を東の境にして、一方の西は新冠川を超えて沙流(さる)まで続いている。その規模は、牧場というよりもはや「ひとつの郡」に近いだろう。「新冠」と名付けた由来は資料に残っていないが、おそらくはたまたまの命名か。それがひょっこり「静内」に残っていたわけだ。
ともあれ、この御料牧場が起源となって、地域に馬産は根付いた。そこは間違いない。
地元の人をまた訪ねた。昭和2年に生まれた山岡マサエさんだ。
室蘭に生まれた山岡さんは、終戦後の昭和23年、新冠で結婚した。嫁ぎ先が、のちに山岡牧場となる。農家の育ちなので、農耕馬には親しみがあったものの、サラブレッドやアングロアラブなどの軽種馬については、ここ新冠で初めて接することになる。
「(大東亜)戦争が始まって、兄(長男)が勤労奉仕で赤平炭坑へ行きました。私も学校を卒業して、冬の間、2年くらい伊達に行ったんです。汽車で通って、カヤで炭俵を作って。作業自体はおもしろく感じました。空襲もありましたね。終戦の年、艦砲射撃(筆者注:軍艦の大砲で陸上を攻撃すること)ですか、岬に海からドンドン弾が飛んで来て、飛行機も見えました。怖い思いをしたのをよく覚えてます」
戦時中の記憶をそんなふうに語る。
人の記憶は頭の中にだけ宿るのではない。肉体にもまた確実に刻まれる。
山岡さんが両方の指を見せた。人差し指の第一関節あたりが、親指側へ、はっきりわかるほどに曲がっている。軽種馬に本格的に取り組む前は搾乳に忙しかったという。当時、搾乳機はまだない。たくさんの仕事に追われる中、連日2~3頭、牛の乳を絞った。指が曲がってしまったのは、その作業の名残である。
「目覚まし時計をかけないでも、朝は決まって3時に目が覚めました。起きたら、薪ストーブにごはんをかけて、それから牛を連れに行く。おしゅうとめさんもいましたし、食事の時間もないほどいろんな仕事をして、寝るのは夜の11時。そんな毎日でしたね。厩舎を建てる時に牛は全部手放したんですけど、その時は本当にホッとしましたよ」
今はとても穏やかな笑みを浮かべて、過ぎ去った昔を山岡さんは振り返る。
ご主人の透さんは、大正12年に生まれた。戦時中は近衛兵として東京にいた。
結婚して4年目の頃、サラブレッドを買ってきた。新冠で最初にアラブを扱ったのが親戚の中本家であり、軽種馬をやってみたらどうか、と勧められたのだ。
そこからは、仕事の中心が馬に変わった。
朝、馬を出して馬房を片付け、寝わらを干す。そんな1日の始まりから、夕方、集牧までの段取りがすべてマサエさんの担当になった。
馬の世話に汗を流すうち、頭数は徐々に増えていった。
だが、原因不明のまま、生まれた仔馬が次々と死んでいった年もあった。いろんな紆余曲折を懸命に乗り切って、遂に山岡家にも名馬が誕生したのだ。昭和55年のことだった。
現役の2年間で実に15戦11勝、北海道三冠と呼ばれる北斗盃、王冠賞、北海優駿を制したのがトヨクラダイオーである。道営競馬史上、初の三冠馬に輝いた。
「生産者賞をいただいて、あの時、わたしにも初めてお小遣いがあたったんです」
ハルエさんの表情がほころんだ。
(つづく)
*参考文献
『凌雲 ――創立110周年記念誌』農林水産省・新冠種畜牧場(昭和58年刊)
*編集部注......取材者の発言内容は、可能なかぎり史実と照らし合わせ、内容を確認してから掲載していますが、現存する当時の資料は少なく、一部に記憶違いが含まれている可能性もあります。ご了承ください。