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馬産地の記憶

河村清明 馬産地の記憶

第3回 生産地を支えた獣医の仕事(上)

「新冠周辺になぜ馬産が根付いたかといえば、大元をたどれば、どうやら新冠御料牧場の存在に行きつく」
 前回、そのように書いた。

03-img-map02_1.jpg だが、もちろん北海道の馬産は新冠、静内にとどまらない。胆振や門別、浦河、さらに十勝へも広がりを見せている。
 北海道地図をぼんやりと眺めるうち、ふと思ったのだ。"日高→軽種馬""十勝→重種馬"と生産の区分は明確なものの、あらためて考えてみれば、この構図は不思議でもある。軽種馬と重種馬の生産地域がどうしてこんなにもハッキリ分かれたのか、何か理由があるのだろうか、と考え始めたのだ。

 資料を探すうち、ヒントに遭遇した。
 どうやら他の場所にも、新冠御料牧場に似た存在を認めることができるのである。

 話は明治40(1907)年にさかのぼる。この年、浦河郡浦河町字西舎村に日高種付牧場が誕生している。
 西舎(にししゃ)と聞いてオッと思う人はかなりの競馬通だろう。現在では、JRAの日高育成牧場やBTC(軽種馬調教センター)などが近くに揃っており、03-img-map02_2.jpg北海道における「育成・調教のメッカ」といえる場所が西舎なのである。
 さらに明治43年、今度は十勝の音更(おとふけ)に十勝種馬牧場ができた。共に国営の牧場である。
 その後、十勝種付所、十勝種畜牧場と名前を変えて、現在ある「家畜改良センター・十勝牧場」へ繋がっていく。同じ名称は前回にも書いた。新冠御料牧場が今、「家畜改良センター・新冠牧場」に変わっているのと同じ流れである。

 再び歴史の教科書のようになるのを許して欲しい。
 日清・日露の両戦争で勝利こそおさめたものの、戦いの中で、日本は軍馬の質の悪さを痛感させられた。そこで明治38年、馬政第一次計画を策定して、内閣に馬政局ができた。国を挙げた軍馬の増強がここに始まったのである。
 馬政計画に沿い、種馬牧場(主に種牡馬の改良を目的とする)や育成所が各地に完成していった。そのうちのひとつが浦河の西舎に、またひとつが十勝の音更に根を下ろしたのである。
 馬生計画の中身を見れば、地域ごとにどういった馬を生産するか、計画が細かく立てられている。荷役馬や輓馬、つまり重種馬は十勝で、また騎兵が使用する中間種や軽種馬は日高で、との区分が、実はここに産声を上げたのだった。

03-photo_01.jpg「浦河の幌別で生まれました。戦時中は近くの牧場に勤労奉仕に行ってましたね。朝、馬車で迎えが来るんですよ。行ってからは草取りをするんです」
 そう話す元獣医がいる。静内に暮らす中島滋さんである。昭和9年に生まれた。
 中島さんの言う牧場こそ、先ほどの日高種付牧場(その当時は日高種畜牧場)である。
「実家では戦前、馬はやってませんでした。貧乏な畑作農家で、大豆、小豆、燕麦や麦を作ってた。兄妹はね、恥ずかしくて言えないんだわ(笑)。9人いるんだよね。男6人、女3人で、ロクサンのカブ(笑)」
 明るい口調が中島さんの持ち味だ。

 国民学校から中学校を経て、静内の高校に学んだ。卒業した昭和28年、農協で畜産関係の仕事に就いた。
 そして迎えた昭和30年、一念発起した中島さんは東京の大学で獣医の勉強を始める。34年、獣医の免許を手に静内へ戻ってきた。
 「あの頃、今の日本軽種馬協会の支部みたいなのが日高にあって、最初はそこに入ったんですよ。でもね、まだ組織がしっかりしてなくて、実習だって軽種馬振興会で働くことになったんです。1万円の給料じゃどうもならない。同時に開業してね」

 当時の静内には、電気のつかないところがたくさんあった。開業獣医となった中島さんの、移動の主な手段はオートバイだったが、もちろん道路は舗装されていない。そろばん道路といって、夏の路面はガタガタで舞い上がるホコリがすごく、冬は雪のため馬そりを使うしかなかった。
「真歌山ってあるでしょ。あそこから冬に下りてくる人たちは馬で買い物に来てた。通学する人は、砂とかアクを持ってきて、坂がすべるから、それを敷きながら歩いてたりね。今は本当に天国ですよ」
 そう中島さんは笑う。
 電話も広まっていないため、仕事の連絡には、農協の設置した「有線」が使われた。各農家に置かれたスピーカーから、「獣医の○○さん、○○へ向かってください」と指示が聞こえたりした。
「当時は牛が主流で、馬を診る獣医はまだ少なかった。繁殖シーズンは寝ないで働きました。ほかにも伝貧検査や予防注射や虫下しや、全部農家を回ってだから、忙しかったですよ」

 さらに面白いエピソードを聞いたのだ。
 考えてみれば当たり前だが、馬運車のない時代には、種付けへ行くにも繁殖牝馬を人が曳いて歩かねばならなかった。
 静内の農家であれば、浦河の西舎まで馬を曳いて行くのが普通だった。種付けに向かう繁殖牝馬には、たいていとねっ仔が一緒だから、長旅ゆえ、そのとねっ仔が歩けなくなったりもした。
 必携の品がわらじだった。国道を歩くと蹄が減るため、できるだけ海岸を歩かせはしたが、それでも普通の道を行く時もある。そんな時に蹄を保護するため、わらじを履かせるのだ。当時の人馬は、幾多の苦労の末、やっとの思いで種付け所へたどり着いたのである。
「昔は何するにしてもたいへんですよ。それでも、馬の臨床をやってきて、よかったなって思ってます。病気が治ったり、馬が走ったり、まわりの人に喜ばれるってことにすごく生き甲斐を感じてきましたからね」
 中島さんが育てた獣医は軽く30人を超える。
 本人だけでなく、その後輩たちも、この国の馬産を支え続けている。

(つづく)


*編集部注......取材者の発言内容は、可能なかぎり史実と照らし合わせ、内容を確認してから掲載していますが、現存する当時の資料は少なく、一部に記憶違いが含まれている可能性もあります。ご了承ください。