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馬産地の記憶

河村清明 馬産地の記憶

第4回 生産地を支えた獣医の仕事(下)

 帯広から北へおよそ40キロ、河東郡上士幌(かみしほろ)町までは30分と少しのドライブである。
「えっ、滋ちゃんにも話聞いたの? 元気にしてた?」
 昭和9年の生まれとはとても思えない言葉の勢いに、つい引きずり込まれてしまう。

04-img-map02_2.jpg04-img-map02_1.jpg「同い年なんだよね。会合なんかで、昔はよく一緒になってね」
 前回ご紹介した静内の元獣医・田中滋さんをご存知という。北海道は広いが、獣医の世界は案外狭いのかもしれない。
「今ね、景色のいいところに案内しますから」
 連れて行ってもらった先に牧場があった。看板を見れば、"ナイタイ高原牧場"と書かれている。どうやら牛を育てる牧場のようだ。
 敷地は広く、丘陵を利用している。だから、車はどんどん坂を上っていく。
 山頂付近に展望台が作られており、立派なレストハウスが見えた。
 そのレストハウスに置かれたパンフレットを手に取れば、「戦前、種馬育成牧場として利用されていました」と書かれている。前回触れた"十勝種馬牧場"と関係があったはず、と僕は考えた。詳しい記述こそないものの、十勝種馬牧場の作られた音更町は、帯広から上士幌への途中に位置する。関係する種馬をここで育成していた、と考えるのが普通だろう。

 運ばれてきたコーヒーをゆっくり口に含んでから、「小樽の生まれです」と田中稔さんは話し始めた。前回の中島滋先生同様、戦後の馬産地をよく知る獣医師である。

04-photo_01.jpg 1941(昭和16)年、それまでの尋常小学校は国民学校に名前を変えた。戦争の激化に伴い、お国に奉仕する心を持った"少国民"を育成するため、学校制度が変わったのである。その国民学校の、田中さんらは一期生だった。
 だが、やがて小樽を離れ疎開した。主要港ゆえ空襲に遭う危険性が高い、と強制疎開を命じられたのだ。岩内郡の、母方の実家の近くへと移り、そこで終戦を迎えた。そして昭和28年、道立・岩内高校から帯広畜産大学に入学した。

 当時の北海道で育った子供はみんな同じだろう、田中さんのまわりにも常に馬がいた。母の実家では農耕馬が飼われていたし、父親の仕事場に足を伸ばせば、線路に敷く砂利を川から上げていた。そこにも、砂利を懸命に運ぶ馬の姿があった。
「昔は客馬車が十勝を走ってたし、山で切った木を川まで持ってくるのも馬、川に流された丸太を引き上げるたのも馬、トロッコに積むため駅まで運ぶのも馬でしたもんね。馬って十勝の開拓にすごく役だった。だから、北海道の人は馬を食べないんですよ」
 そう話す田中さんは、学生時代、競馬場でアルバイトをしていた。
「貧乏だったからアルバイトに励みましたよ。競馬場と家庭教師。道営競馬を、あの頃帯広競馬場でやってましたからね。
 当時はゼッケンがズックでできてたんですよ。雨降りでどろんこになると、亀の子たわしと粉石けんで洗って、炭火で乾かします。それが主な仕事。それとね、もう時効だから小さな声で言いますけども、関係者に馬券買うのを頼まれるんですよ。配当が320円になったら、端数の20円がもらえたんです。一日で、じゃらじゃらと結構貯まったもんですよ。あの頃の競馬は繋駕に速歩、あと普通のレースもありましたね。スタートもバリアーだったし、騎手は天神乗りだったし。繋駕レースじゃ、キャンターで3歩以上走ったら失格って、そんなの知らないでしょ?」
 茶目っ気たっぷりに田中さんは笑うのだ。

 大学を出て、十勝で獣医師になった。戦後の北海道の様変わりを考えれば想像は可能だが、昭和30年代までは馬の診療が多く、トラクターの増加した40年代には、診療の対象が牛へ移行していったという。
「獣医になって、この上士幌町に来た時には、馬は4千頭くらいいましたかね。農家は600戸くらいだったけど、多い人は20頭くらい持ってましたから。ほとんどが中間種でしたね」
 当時、馬に腰フラが目立った。のちに"わらび中毒"と呼ばれた。
 湿地帯に生えるわらびとゼンマイを馬が食べる。すると、破壊酵素が含まれているため、ビタミンB1不足を起こしてしまうのだ。そんな原因がのちに判明した。
 また豆殻中毒も多かった。エサが乏しく、馬に豆殻を食べさせると、同じく中毒症状が出た。
「殻に付いた除草剤が悪かったんですね。原因を突き止めて、エサを改良して。そうする中で、少しずつ診療は進歩してきたんですよ」
 取材のあと、田中先生は僕に『十勝の馬産と診療小史』と題する冊子をくれた。筆者を見れば「十勝獣医師会有志」とある。お仲間が戦後の診療についてまとめたものだ。先生の一文もある。読んでみて実感できた。貴重な歴史がページの中にぎっしり詰まっている。

「昔はね、馬の小便も売れたんですよ」
 また謎めいた言葉を田中先生が口にした。
04-photo_03.jpg「農家が妊娠馬のおしっこを取っておいて、会社が集荷しにいくんです。芽室に工場があって、ホルモン剤の原料になったんですね。昔の十勝には、馬にまつわるいろんな産業があったんですよ」
 そんな話は聞いたことがない。だから、詳細を調べてみようと、すぐさま図書館に走ったのだ。
 いろんな資料をめくるうち、ようやく見つけ出すことができた。「馬尿からオバホルモン」の見出しが『蹄跡』という分厚い本に記されていた。
「航空部隊の栄養剤として需要は増えつづけ」とそのホルモン剤について書かれている。先生の言う通り、昭和19年に芽室に工場が完成しており、その工場へ馬の尿は運ばれたようだ。
 続く記述を引用してみよう。
《毎年冬になると各農家には採尿の樽が配られ、ドラムカンのような樽に入れられた馬尿が馬そりで運搬される光景が見られるようになり、町民の間には風物詩的な親しみがあった。風向きの悪い日などには、工場からの異臭が町をおおうこともあったという。》
 いやいや、馬産地の歴史は奥が深い。僕はまたため息をつきそうになった。

(つづく)


*参考文献
『蹄跡(つめあと)』北海道馬産史編集委員会編(昭和58年刊)

*編集部注
取材者の発言内容は、可能なかぎり史実と照らし合わせ、内容を確認してから掲載していますが、現存する当時の資料は少なく、一部に記憶違いが含まれている可能性もあります。ご了承ください。