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馬産地の記憶

河村清明 馬産地の記憶

第5回 ばんえい競馬のルーツ

 獣医の田中稔先生を訪ねた直後、輓馬(ばんば)の種付けを見る機会に恵まれた。十勝に詳しい知人に便乗する格好で訪問したのは、中川郡本別町にある小さな牧場だった。

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 サラブレッドの種付けは見たことがあっても、重種馬については初めての経験である。目の前で繰り広げられた迫力あふれる光景について、また種付けの、サラブレッドとの違いについては面白い話を書けそうに思うが、本題からずれてしまうので割愛する。お伝えしたいのは、見学後のことである。
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 生産者のご自宅でお茶をご馳走になった。するとその時、奥の部屋に、額が飾ってあるのが見えた。
 すみません......そう断ってから、額の中の絵に僕はカメラを向けたのだ。そして、「これ"ケツ曳き"って奴ですか?」と質問した。
「そう、ケツ曳き。ばんえいのルーツだよね。有名な人が描いたものらしいんだけど、画家の名前は忘れちゃったなァ」
 牧場主が笑顔で言った。
 その言葉に、もう一度、僕は田中先生とのやりとりを思い出すことになった。

 かつて北海道では林業が盛んだった。「山で切った木を川まで持ってくるのも馬、川に流された丸太を引き上げるたのも馬、トロッコに積むため駅まで運ぶのも馬でした」とは、前回紹介した田中先生の言葉である。
 当時はチェーンソーなどないから、"木挽き"と呼ばれる人たちが、のこぎりを使って木を切った。そして、切り出された丸太を馬が運んだ。
 山の中にできたのが"飯場"だ。戦後、その飯場に集い、作業に従事する人の中には、ヤクザ者が多かったという。
「ドスを懐に忍ばせて、山から山に渡り歩いていてました。いわゆる渡世人ですよね」
 田中先生が僕に教えたものだ。
 渡世人に関係する馬も、頼まれれば診察しないわけにはいかない。ひどい疝痛を起こしてしまい、もうどうやっても助からない、と感じさせる馬を診た時のことである。診断の結果を正直に伝えると、「んなら、あと何時間で死ぬ? 当ててみれ。死ななかったらどうしてくれんだ?」と恫喝まがいの言葉と共に相手が居直ったという。
「助かるんなら、それに越したことないじゃないですか!」
 田中先生は必死に反論したが、当時の作業現場は、そんなにも殺伐とした雰囲気の中にあったわけだ。肝が据わってないと、診察さえままならなかった。

 仕事を終えた渡世人が飯場で酒を呑むと、今度は馬の自慢が始まった。「オレのが一番」「いや、オレの方が力がある」と応酬は尽きなかった。
 白黒をハッキリ付けるため、日を置いて、力比べが行われた。その力比べこそ、何を隠そうケツ曳きであった。
 撮影した絵の中で2頭は直接綱でつながっているが、実際のケツ曳きは、間に丸太を置き、両サイドから引っ張り合う形式が多かったという。そして、勝負を見守る人たちは、どちらが勝つか、当然のように金を賭けた。
 このケツ曳きが、やがて、重荷を曳くレースの形に発展していく。ばんえい競馬の誕生である。北海道内の、あちらこちらの祭事で行われ、民衆にも愛された。外国人によって持ち込まれた一般の競馬とは違って、馬と人のつながりの中、ごくごく自然に発生した競技といえる。

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 翌日、生の競馬が見たくなって、帯広競馬場を訪ねた。スタンド内を歩けば、近郊で行われるばんえい大会のポスターが貼ってあった。それこそ何枚も。ケツ曳きに始まったばんえい競馬が、北海道東部にここまで根付いていると、そのポスターは雄弁に物語っていた。
 検量室に尋ねたい人がいた。実は田中先生のことだ。今、先生は、帯広市農政部の依頼を受けて、出走前の検体業務に従事している。馬装を始めた一頭一頭に歩み寄っては、血統書に記された特徴と合致するかどうか、馬がすり替わっていないか、もう一人の担当者と確認するのである。
 レース後も、さらに仕事は続く。ドーピング防止の検尿が、上位で入選した馬に義務づけられているのは、一般の競馬もばんえいも同じだ。しかし、1時間待っても、馬から小便の出ないケースがある。そんな時には、田中先生が血液を採取して、検査に回さなければならない。
 挨拶をすると、にこやかに迎えてくれた。さらに、こう言うではないか。「資料館に行きました? あそこなら、もっといろいろわかりますよ」と。

「馬の資料館」は帯広競馬場の正門脇にある。
 館内には、馬具や写真、さらに地域の年表などが所狭しと展示されている。「ばんえい競馬の始まり」と題したパネルを見れば、ケツ曳きの写真も紹介されていた。
 続けて、音更町の日高種馬牧場に関する記述を見つけた。引用してみよう。
《牧場は開設時からサラブレッド種、トロッター種、ハクニー種、アングロノルマン種、ペルシュロン種、クライズデール種など種雄馬10頭、牝馬54頭を繋養しました。その後、大正10年頃には施設の整備と共に、種雄馬68頭をはじめとして計383頭を数えるまでになり、道東の馬産改良の中心となりました。》
 この数行からも、当時の馬匹改良が、まずは種牡馬に始まった事実が伺える。大型馬と共に、すでにサラブレッド種も導入されていたんだなァと、微妙な感慨に僕は包まれた。

 話が少し行き来してしまうが、新冠の新冠御料牧場、浦河の日高種馬牧場、十勝の十勝種付牧場らで行われてきた「馬匹改良」の、最大の目的は「軍馬の確保」にあった。
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 ただ、そうした国直轄の牧場だけでは、軍が必要とする数の馬は到底まかないきれない。そのため、生産した馬を民間に払い下げたり、改良した種牡馬を貸し付けたりして、さらなる増産に努め、結果として、国営牧場の周辺で馬産が活発になった。日高でも十勝でも、馬産地として名を馳せた背景には、国策が切っても切れない関係にあったのである。
 資料館には、軍馬の出征に関する写真も展示されていた。
「このへんにはね、昔、軍馬補充部があったのさ」
 ふと耳に蘇ったのは、輓馬の種付けを見せてくれた生産者の声だった。
 日本の馬産の歴史を、馬産地の形成を知るには、軍馬についても知らなければならない。あらためてそう感じた僕は、急いで中川郡本別町に引き返すことにした。
 聞いた言葉の通り、そこにはかつて陸軍の軍馬補充部が存在したからである。

(つづく)


*編集部注
取材者の発言内容は、可能なかぎり史実と照らし合わせ、内容を確認してから掲載していますが、現存する当時の資料は少なく、一部に記憶違いが含まれている可能性もあります。ご了承ください。