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馬産地の記憶

河村清明 馬産地の記憶

第6回 軍馬補充部という組織

 鉄道にまるで興味のない人でも、この名前は聞いたことがあるのではないか。
 ふるさと銀河線(北海道ちほく高原鉄道)。

 十勝管内の、ワインで有名な池田町と、北東部の中核都市・北見とを結ぶ鉄道路線のことだが、2006年4月20日をもって廃止に追い込まれた。つまり、もう乗ることはできない。それでも、往時を偲ばせる駅舎は、観光資源として、あるいはバスの待合所として、沿線のところどころに残っている。

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 この"ふるさと銀河線"に仙美里(せんびり)駅はあった。
 池田駅を出発した列車は、やがて「本別→仙美里→足寄」と通過した。本別からも足寄からもほぼ8キロの場所に位置するため、まさに両駅の中間点をなす。
 実際に歩いてみるとよくわかるのだが、本別・足寄の駅前に比べ、仙美里駅の周辺は賑わいに乏しい。列車が走っていた当時も、乗降客はさほど多くなかっただろうと想像できる。
 しかしながら、昭和20年に差しかかる頃までは、ほかにはない大きな特徴がここ仙美里駅に存在した。特殊な"ある物"の乗降に使用されたのだ。
 その輸送物こそ、実は軍馬だった。

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 日本の馬産が、軍馬の増強と密接な結びつきを持ちつつ基礎を固めてきたことは、連載のこれまでにも書いてきた。国が各地に種馬牧場を作り、品種の改良を図るのと並行して、明治29年、陸軍省も新たな組織を発足させている。その名を軍馬補充部という。
 軍馬の購買、育成、供給から資源調査までを担当した。全国8カ所の支部のうち、北海道には川上、釧路、十勝、根室と4カ所に設置された。
 十勝支部の中心部が仙美里だった。だから、軍馬の輸送に網走本線(当時)の仙美里駅が使われたのだ。小高い丘の上には関係する庁舎が作られ、その一部も現存している。周辺には馬場や放牧地が広がっていたという。2万ヘクタールにも及ぶ敷地の中で、1000頭を超える馬たちが育成されていた。

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 当時の様子を知りたい――。
 そう思った僕は、ツテをたどるうち、軍馬補充部での勤務経験を持つ男性に会うことができた。
「馬はね、そりゃ大事にされましたよ。なにせ、あの頃は兵器でしたからね。そういう時代でした」
 かくしゃくと語る佐々木正男さんは、大正15年に生まれた。まさに"昭和の生き証人"のお一人である。
 尋常小学校~高等小学校(当時は2年生)を卒業してから、軍馬補充部に勤務した。部内の業務は、馬に直接携わる"育成"と、馬の餌を作る"農産"に大きくわかれており、佐々木さんは農産部に所属した。軍人ではなく、いわゆる軍属の立場から馬の増強に携わったわけだ。
「大佐が指揮官で、この人が支部長なんです。あと、獣医さんもたくさんいましたね。命令には絶対に服従しなければならなりませんでしたけど、僕ら軍属にきついことは言わなかったですよ」
 当時を振り返って、佐々木さんはそんなふうに話す。

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 仙美里駅から貨車に乗せられ、軍馬は戦地へ旅立っていった。貨車と船を乗り継いで九州へ向かい、さらに大陸を目指したのだ。
 この軍馬の輸送に、佐々木さんも同行した。1両に6頭を積み込んで、貨車の中央に"もっこ"と呼ばれる寝床を吊り、共に旅をするのだ。おおよそ5日から1週間で九州の軍港に到着した。
「でもね」
 と、佐々木さんはここで笑った。それよりも、引き取りに行く方が大変なんですよ、と。
「軍馬補充部には、まだ若くて、訓練されていない馬が方々から集められてくるでしょ。気が荒いんだ。言うことをまるで聞かないんです」
 なるほど。
「こっちから馬を持っていく時は、3頭を繋ぎます。尾っぽと頭絡を結んで、縦に3頭並ぶ。だから列が長くなる。最初は駆けたりもするんだけど、すぐ落ち着いて歩いてくれました。引き取りに比べると、駅まで持っていくのは楽でしたね」

 誰もが知るとおり、太平洋戦争が始まったのは昭和16年12月のことだ。開戦当初こそ日本軍に勢いがあったが、戦局はすぐに悪化した。
 数えてみれば、佐々木さんの軍馬補充部への就職は昭和15年前後だから、戦時中の軍馬育成をまさに見つめてきたことになる。
 朝7時の点呼が終わると、竹槍を持たされた。敵を倒す訓練を行うためだ。連日、そうした訓練のあとで仕事に取りかかった。作業は夕方5時まで続いた。
 その頃の若者に、時代は、あるいは国は、戦争への疑問を口にさせなかった。批判を口にすれば、たちまち憲兵から拷問を受けた。
 それでも、若き日の佐々木さんはこんなふうにも感じていた。
 ――戦闘機が本土まで攻めてこようかという時に、馬で大丈夫なんだろうか。
 まっとうな感覚である。そのとおりと思う。
 同じ頃、陸軍では、かつて騎兵として馴らした軍人たちが、続々と戦車部隊へ転属になった。軍馬補充部十勝支部に勤務していたこともある有名なバロン西(本名:西竹一、ロス五輪馬場馬術の金メダリスト)も、そのうちの一人だった。

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 昭和20年、本別も空襲を受けた。
「厩舎やら官舎やら、建物がこのあたりに並んでいて、焼夷弾で2棟くらい焼かれたんです。消しに行くこともできませんでした。本別から飛行機が旋回するのに、ちょうとここらへんがよかったんでしょうね。巡回してきて、バリバリバリバリってまた低空飛行で機銃掃射されてね。飛行士の姿もしっかり見えました」
 7月15日のことである。そして1カ月後、戦争は終結した。

 軍馬補充部の跡地と共に、仙美里の丘にはもう一つ、知っておくべき場所がある。
 軍馬慰霊碑のことだ。
 戦後、佐々木さんらの送り出した軍馬が、日本に戻ってくることはなかった。戦地に散ったその魂を鎮めるため、この碑を建てたのは、かつての仙美里駅の駅長だった。多くの軍馬の出征を見つめ続けたその人は、名を森弘さんという。

(つづく)


*取材協力:とかち馬文化を支える会
*編集部注
取材者の発言内容は、可能なかぎり史実と照らし合わせ、内容を確認してから掲載していますが、現存する当時の資料は少なく、一部に記憶違いが含まれている可能性もあります。ご了承ください。