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第167便 メモリアルキッス

2008.11.02
 水曜日は燃えるゴミの日。ゴミを詰めたレジ袋を下げて私は,外に出て思わず,「気持ちいいなあ」と言いそうになった。
 暑くもなく寒くもなく,空気が澄んで,日差しも風もやさしい朝だ。ゴミの集め場所の近くに,彼岸花が連らなって咲いていた。昨夜のテレビの映像で,彼岸花の白いのを初めて見たが,やはり彼岸花は赤がいい,と私は思って色を見つめた。

 明け方の救急車,ホリさんだったの」道路の曲り角でぶつかりそうになった80歳の老婆が言った。
 「ユウちゃんに死なれてホリさん,泣きっぱなしで痩せちゃって」ユウちゃんというのは犬のプードルだ。
 「ご主人が死んだときは,案外ケロッとしてたのにね」
 「可哀そうに」
 「ホリさんはわたしと同じトシなの。わたしのほうが,コドクに強いのね。わたし,犬や猫を頼りにしないわ」
 「おたがい,がんばりましょう」と私は笑って老婆と離れた。

 女房が女どおしの旅行で留守で,私はトーストを食べ,牛乳をのんだ。
 「あれっ?」と耳を向ける。まだセミの鳴き声がした。
 「死」
 その鳴き声が私に心で,そう言わせた。

 悲しくてたまらない死もあれば,そんなには感じない死もあるな。そう思いながら私は,ひとりの人間の死が耐えられないほど悲しいことがあるのに,戦争をやめられない人間というのは,たいした生きものではないな,と考えて彼岸花の赤を思い浮かべた。私は新聞を読む。

 『もう甘えられない』という見出しの記事があった。『ひとつの時代が完全に終ったのだと思う。長嶋茂雄が巨人に入団したのが58年だった。王貞治は翌年に早稲田実業から入団する。それ以降「ON」がユニホームを着なかったシーズンはわずか4年しかなかった。

 2006年に王監督の途中休養はあったものの,51年間,OかNのどちらかがグラウンドにいたのだ。我々はどれだけ彼らに甘えてきたことだろう。高度成長期は背中を押され,昭和から平成にかけても,勇気をもらった』

 そこまで読んで,「かんべんしてくれよ」と私は心でつぶやいた。そんなふうに新聞が書くから,今夜あたり,全国のすべての酒場で,自分の言葉を見つける手間を省いた男たちが,「彼らに甘え」,「背中を押され」,「勇気をもらった」みたいな言い方で「ON」を語り合ってしまうではないか。いったい「彼らに甘え」とはどういうことだ。いったい「背中を押され」とはどういうことだ。いったい「勇気をもらった」とはどういうことだ。この記事を書いた新聞記者が,彼らに甘え,彼らに背中を押され,勇気をもらったのと違うのか。

 ONと同世代の私はそう思い,ふと,福田首相が辞任会見で,「ひとごとのようにとあなたはおっしゃったけどね,私は自分自身のことは客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」と気色ばんだシーンを思いだした。

 もし自分が王監督引退の記事を書いた記者に,「なにか調子にのりすぎていませんか?」と質問をしたら,「あなたとは違うんです」と言われそうな気が私はするのだった。

 私はセミの鳴き声を探した。なんだかさびしくなって,その気持ちをわかってくれるのはセミしかいないと感じたのだ。ポストへ手紙を出しに行った私は,「会いに行こう」自分に言って回り道をし,彼岸花の群れを見に行った。

 日差しが強くなっていて,その赤が深い。立ち止まって,その色を見つめた。ひとには見せられないひとときだと私は思う。「君は,無類の野球好きだったが,ONを見るために生まれてきたわけじゃないと,ひとりごとを言ってましたね」と私は,自分で自分の弔詞を頭に書いていると,「変なひと。遊んであげようか」彼岸花がひそかな声をかけてくれたような気がしたのだった。

 やがて彼岸花が枯れ,キンモクセイが匂った。2008年10月13日の夜10時すぎ,「またまたまた,ブルーコンコルドが,わが家の出来事に絡んできましたよ」と盛岡市に住むシゲルさんが電話をしてきた。その日,盛岡競馬場のマイルCS南部杯で,幸英明騎乗のブルーコンコルドが勝っている。このレース,3連覇の偉業だ。

 2006年10月9日,ブルーコンコルドがマイルCS南部杯を勝った日,シゲルさんの母親が84歳で亡くなっている。次の年の10月8日,南部杯をブルーコンコルドが連覇した日,シゲルさんの父親が87歳で生涯を閉じた。

 「何が起きた?」私が聞いた。
 「孫が生まれたの。女の子だって。1時間ほど前に連絡がきて」
 「どっち?」
 シゲルさんにはふたりの娘がいて,長女は福岡へ,次女は東京へ嫁いでいる。
 「長女の方。よかったよ。ほしがっていたのに出来んかったから」
 「それにしてもブルーコンコルドに縁があるなあ」
 「なんだろね。びっくりだ。今日は女房と競馬場へ行ってて,ブルーコンコルドが勝ったものだから,ひょっとして今夜あたり,福岡でオギャーかもねって話してたんだ。

 おととい,おやじとおふくろの法事で集まったときも,親戚の人がね,南部杯にブルーコンコルドが出るから何かあるぞって。まったくまったく不思議だ。ブルーコンコルドがおれの家の何かのような気がするさ」とシゲルさんは笑った。

 電話を切ったあと,シゲルさんとのつきあいをふりかえった。1960年代の後半から1980年ごろまで,薬品会社の営業部長だった私の部下だったのがシゲルさんである。年令は私より5歳若い。病院相手に,医師相手に,10年ほど商売の苦労をともにしたシゲルさんは,ゼンソクを患い,故郷の盛岡に帰ると発作が出ないとか,それで東京を引きあげたのだった。

 1970年代の競馬場へ,よく私と一緒に行ったのがシゲルさんなのだ。1971(昭和46)年のダービーでヒカルイマイが勝ち,2着がハーバーローヤルの枠連⑤-⑤。5740円をシゲルさんも私も持っていて,その晩は浅草のバーで大騒ぎ。それを私は忘れているが,シゲルさんが忘れないでいるのは,その晩にバーへ招いた看護婦の君代さんと,のちにシゲルさんは結婚したからだ。

 私は宙を見つめた。益田競馬で知りあった益田市の男,上山競馬で知りあった上山市の男,高崎競馬で知りあった高崎市の男たちから届く手紙のことが浮かんだのだ。どうして競馬が消えてしまったのだろう。競馬が撤退して何年が過ぎても,どの手紙も同じ思いだ。

 2008年10月14日の夕方,「今,あと2日で終る旭川競馬場にいます」と旭川市の友だちからのケイタイが鳴った。「あと2日で終り。涙も出ないわ。今ね,第5レースの11頭がパドックを歩いてる。オンザメモリーっていう馬もいるよ。母の名がメモリアルキッス。ああ,旭川競馬場にメモリアルキッスだね。うう,寒い」聞いて私は,メモリアルキッス,とつぶやいた。
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