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第177便 キムラくん

2009.09.01
 ビッグレッドファーム明和の事務所は,タネ付けシーズンだと朝5時半の始業だが,7月になって8時になった。事務所のファックスを使わせてもらって,そのあと,ほとんどの朝,スタリオンの厩舎に寄る。

 昼の2時に放牧されて,朝5時半に馬房へ帰るタネ馬たちは,ちょっと眠そうでぼんやりしている。
 「おはよう」
 飼葉桶に顔をつけているタイムパラドックスに挨拶をする。私とタイムパラドックスとの距離は,柵をへだてて20センチか。タイムパラドックスが顔をあげて,
 「フウッ」私に息をかけてくる。挨拶をしてくれたのかもしれない。それで私も,「フウッ」。

 コトッ。コトン。コトッ。コトン。かすかな音が続く。タイムパラドックスは飼葉桶をくわえては落とす。口先の小さな動きだが,飽きもせずに続ける。遊びなのだろうか。そのかすかな音を,ほとんどの朝,聞いている私は,だんだんとタイムパラドックスに友情を感じはじめた。おれもそんな遊びをして生きているようなものだよ,と私は思うのだ。

 タイムパラドックスは社台グループの白老ファームの生産で,社台レースホースが馬主だった。ジャパンCダートを含むGⅠレース5勝で,獲得賞金9億7786万円。ブライアンズタイムの代表産駒と言ってもよかろう。幸運にもタイムパラドックスの1口馬主になった人を,私は何人も知っている。善男善女を熱狂させ,いわば「タイムパラドックスを探せ」が,共有馬主クラブのキャッチフレーズのようなものだ。

 「タイムさま,パラドックスさま」ドキドキワクワク,善男善女をとりこにしていたタイムパラドックスと,コトッ,コトッと孤独な音をさせている,その落差。私には,それこそがたまらないドラマを感じさせてくれるのだ。
 タイムパラドックスの馬房のすぐ前が洗い場で,木村浩史くんがステイゴールドの蹄にオイルを塗っている。おとといだったか,手のあいた木村くんに,
 「どこから?ふるさとはどこ?」
 と聞いた。私は牧場めぐりで訪ねてくる人にも,牧場で働いている人にも,どこから来ているのかと聞かなければ気が済まない。人間にとって生まれ育ったところが祖国だと思うからだ。
 「神奈川です」
 「神奈川のどこ?」
 「横須賀です」
 「うちの親戚,大津にあるよ」
 「ぼく,大津です」
 「おお!」
 「まだ行ってないんですけど,坂本龍馬の奥さんの,おりょうさんのお墓が大津にあるんですよね」
 と木村くんが言ったので,
 「おれ,今年の5月に,おりょうさんのお墓を探しあてたばかりなんだ」
 私はばかにうれしくなった。

 木村くんは昭和48年,1973年生まれ。
 「どうして競馬に縁があったの?」
 「高校時代に,友だちに誘われて,横浜の馬券売り場へ行って,持っていた競馬新聞のシルシどおりに買ったら,オサイチジョージが勝った宝塚記念の馬券が当たっちゃったんですよ。それで競馬が好きになっちゃって,馬を見たくて,根岸の競馬博物館へ行って,馬を見たんです。厩務員という仕事があるのを知って,だったら,牧場へ行って修業しなくちゃって,高校3年の夏休みに,浦河の牧場でバイトした」
 「ナニ牧場?」
 「バンブー牧場」
 「竹田さんだ」
 「ハイ。卒業したらまたおいでと言ってもらって,就職したわけ。ずうっとバンブーにいて,なんだかなあ,なんだかさびしくなって,富川の牧場に移って,それからビッグレッドファームに入って,5年目です」
 「厩務員試験は?」
 「それが,だんだんと北海道が好きになって,北海道で暮らしたいなぁと思って,厩務員試験はいちども受けてないです」
 「北海道が好きになったんだ」
 「ハイ」
 「北海道の牧場ではたらく人って,意外に,ドサン子が少ないんだよな」
 「ああ,そうかもしれない。ビッグレッドも,北海道生まれの人,かぞえるほどしかいないかも」
 「北海道を好きになった人で成立してるんだ」
 「夢のようにというのかなぁ,夢といったら大げさなんだけど,小さくても家を建てて,家のうらの畑で,トマトとかナスとかキュウリとか野菜つくって,それを食って暮らせたらサイコーって,そんなふうに思ったんですよ」
 「すばらしいね。すばらしい思想だよ」
 「そんなんじゃないと思うけど」
 「運がいいんだ。そういうふうに思えるのは」
 「ぼくは運がいいですよ。ビッグレッドは,従業員をちゃんと認めてくれる。賃金とか,休みとかも,ちゃんとしてるから」
 「チョンガー?」
 「ハイ」
 「寮に?」
 「ハイ」
 「例えば,昨夜は,何時ごろに寝た?」
 「10時かな。いつも9時半か10時に寝ちゃう。べつに,することないし,ショーチューのんで,ころっと寝ちゃう」
 「ころっと寝て,何時に起きるの?」
 「4時半」

 そう言った木村くんは,馬房でカタンと音をたてたマイネルラヴに目をやった。
 「かわいいすね。ラヴは。レースも凄かったけど,タネ馬になってからもがんばってますよ。タネ付け料だって高くないのに,けっこう走ってますよね」
 と木村くんは,雨の多い7月の,めずらしく晴れた空を眺めた。
 「昨日の雨はこわいほどだったね。夕方,車で通って,凄い雨のなかにいる馬を見て,おれ,馬も大変だなあって,感動したよ」
 「昨日は,昨日の雨は,ぼくも部屋にいて,大丈夫かなぁって,心配になってました。
 カミナリが鳴らなければ,案外,馬は平気なんですけどね,昨日は心配しちゃったなぁ」
 と木村くんは,昼の休みで厩舎を出た。

 コトッ。コトン。コトッ。コトン。タイムパラドックスは相変わらずの桶遊びだ。
 「もし,許されたら,おれ,タイムパラドックスに乗って,どこかの海辺を,ゆっくりゆっくり歩いてみたいなぁ」
 そう思っていると,
 「こんにちは」
 と女の声がした。
 「見せてもらってもいいでしょうか。事務所には言ってきました」
 「いいんじゃないでしょうか。ぼくは牧場の人間じゃないんだけど,静かに見れば,いいんだと思います。ちょっと前,牧場の人は昼休みでいなくなったけど」
 そう言った私は,ひとりでやってきた若い女性にたいしても,
 「どちらからですか?」
 と声をかけるだろう。

 ステイゴールドの前に立って,若い女性は何を感じているのだろう。タイムパラドックスの,コトッ,コトンを聞きながら私は,若い女性に声をかけるタイミングをはかっている。
 家のうらの畑で,トマトやナスをつくって,と木村くんは言っていたよなあ,と思いだした。北海道が好きになってしまって,と言っていたよなあ,と思いだした。「キムラくん」という題名の,絵本を作ってみたいなぁと私は,コトッ,コトンを聞いている。

JBBA NEWS 2009年9月号より転載
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