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第176便 斜里から,相模原から

2009.08.01
 40歳を過ぎて競馬のことを文章にしはじめた私は,牧場の経営者や従業員や,馬主や調教師たちと会う機会が多くなった。あれえ,と思った。競馬の世界というのは,人に会うと,たいてい,「この人,お金持ちなのか貧乏なのか。この人,何を言ったって,馬を買える人じゃないな。この人,有名なのか無名なのか」そんなふうに見られているような気がした。

 それは人間の社会というのは,どこへ行っても同じようなもの。競馬の世界に限ってということでもないさ,と思ったが,しかし,それまでに私が知ってるどの世界よりも,その度合いが露骨なように思えたのだった。
 おかしいではないか。私はハタチ前から競馬を見て馬券を買い,それを50年以上も続けているが,競馬場で,場外馬券売り場で,競馬を愛し愛され,馬券で泣き笑いをしている仲間たちは,ほとんどがお金持ちでなく,ほとんどが無名だろう。そういう人たちの買う馬券が,競馬の世界を成立させている重要なもののひとつなんでしょう?

 わかった。競馬の世界にどう思われようと,そんなことはつまらないと笑いとばして,お金持ちではないけれど,馬は買えないけれども,無名だけれども,競馬場や場外馬券売り場を人生の楽しい場所としている人間として,競馬のことを文章にしていこうと私は決めた。
 そうして書きはじめたのだが,私がめざしている文章としては,仕事が来たら日高や青森へ行って取材するというのではダメで,馬産地の日常を知らなければ書けないと感じたのだった。

 1984(昭和59)年,吉田重雄さんにお願いをして,テンポイントの墓がある吉田牧場で,1年間のイソーローをさせてもらった。吉田重雄さんは48歳,私は47歳である。思えば,まだ,ケイタイ電話がない時代だったなあ。
 それから25年が過ぎた2009年の夏,岡田繁幸さんにお願いをして私は,ビッグレッドファーム明和で暮らしている。72歳になってしまった私は,医師との約束もあり,9月初旬に家へ帰らなければならないのであるが。

 牧場の朝は早い。5時半の始業だ。私も6時に起き上がっている。朝の日課で池のほとりを歩き,スタリオンへと歩く。
 「おはよう」
 先ずロサードにあいさつ。続いてロージズインメイ。そしてタイムパラドックス。
 「おはよう」
 と言ってはこぬが,その辺に住みついている野うさぎが私を見ている。3匹いるのだ。茶色だが,雪の季節には真っ白になるというから不思議である。

 放牧地のステイゴールドを見ている人がふたり。
 「おはようございます。どちらからですか?」
 朝6時半,私が声をかける。
 「斜里です」
 答えたのが父で,にっこりとおじぎしたのが息子だった。斜里。網走から知床へ向かう途中,オホーツク海に面した町だ。
 「いつ,斜里を出たんですか?」
 「昨夜の8時半です。浦河へ着いたのが今朝4時。早く着きすぎちゃいましたね。馬を見たかったんですけど,もう鹿が凄くて,鹿の大群がいて,こっちへ向かっちゃいました。」と息子が言い,
 「ここは,牧場の誰もが,きちんと声をかけてくれるので,つい早くに来たくなるんですよ。それがわたしたちにはうれしいですからね」
 と父が言い,私が名前を聞かせてもらうと,父は大町春彦さん,息子は岳人くんだった。もひとつ聞くと,酪農を営む父子だという。

 「なかなか休みというのが作れないんですよ。でもね,たまには休まないと,なんだか息苦しくてね,それで思いきって,年にいちど,ヘルパーを頼んで,こうして息子と馬を見て歩くんです。ヘルパーといっても,誰でもいいというわけにはいかんで,賃金は高いんだけども,ま,ストレス解消のためには仕方ありませんね」
 「乳牛ですよね」
 「そうです」
 「きびしい経営ですか」
 「ええ,ラクじゃありません。農水相なんかも,長いスパンで考えてほしいけど,ちょこちょこ大臣が変わるし」,
 と春彦さんは静かな口調だ。
 「ところで,競馬は,お父さんの影響かな?」
 私が聞くと,
 「ハイ,父につられて」
 と岳人くんが笑った。
 「わたしはサッカーボーイが好きだったので,その近親のステイゴールドのファンになったんですよ」
 春彦さんは「ステイゴールド」と英語で書いたケイタイのストラップを私に見せた。
 「デビュー3戦目だかで熊沢騎手を振りおとしてね,それで余計に,気になる馬になって」
 と春彦さんが言い,
 「ぼくはメジロマックイーンなんです。天皇賞で降着になってしまったでしょう。あれからファンになったんです」
 と岳人くんが言うので,
 「落馬と降着の親子ですね」
 と私が笑った。

 「この明和には,なつかしい思い出があるんですよ。
 わたしは野幌の,酪農学園大の学生だったんだけど,ハイセイコーが引退して明和牧場に来た2日後に,会いにきたんですよ。
だけど,時間のことがあったのかもしれないけど,見せてもらえなかった。残念でね,くやしくてね,むなしくてね,そのときのこと,今でもおぼえているんですよ。ずいぶん,昔のことになっちゃったけど」
 そう言う春彦さんに,私が知りあいの,勇払郡早来町の酪農の人の名を言うと,春彦さんもその人を知っているのだった。
 「これから,どちらへ?」
 「ハイセイコーの墓まいりをして,早来へ行って,社台スタリオンステーションの種牡馬を眺めさせてもらって,それから函館へ行きます」
 「大遠征ですね」
 「娘が,函館の高校を出た娘が,今,教育実習で函館にいるもんで,ま,2泊3日の旅ということになりますね」
 「お気をつけて。どうもありがとうございました」
 「いえ,どうも,こちらこそ」
 と大町さん父子はスタリオンを離れて行った。

 仕事を済ませて午後,いつのまにか雨が降っていて,やがてどしゃ降りになった。事務所へ行かねばならない用事があり,長靴をはいて外へ出ると,元小学校の校庭に入ってきた車が,私の近くで停まった。
 「すみません」
 開いた窓から声がした。初老の男である。
 「ハイセイコーのお墓って,この近くですか?」
 「近いよ」
 と答えて私が,屋根のある所まで行ってくれと指示をした。
 神奈川県の相模原市から来たという初老の男は,ひとりでレンタカーで,馬産地めぐりをしているというのだ。
 「時間だけはたっぷりあるんでね」
 と笑う男の車に私は乗りこんだ。地図を教えるよりも,一緒に行ってやったほうがいいと思ったのだ。
 すぐにハイセイコーの墓に着いたが,あまりに激しい雨で,小降りになるのを車のなかで待つことにした。
 「なんですか,青春の,センチメンタルジャーニーですか?」
 「アハハ。いちどね,馬券ばっかりやってないで,北海道の馬の産地を車で走ってみたかったんですよ。でも,やってみると,さびしいもんだね」
 「その,さびしさってのがセレブなんだなあ」
 と笑って私は男の膝を叩いてやった。

JBBA NEWS 2009年8月号より転載
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