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第170便 オフト後楽園

2009.02.01
 新橋駅近くで午後3時に用事が済んだ。夜6時に目黒で友だちと会う約束がある。それまでどう時間をつぶそうかな。
 とりあえず久しぶりに銀座でも歩いてみようか。銀ぶら。まだ,銀ぶらなんて言い方が残っているのかね。そんなふうに思いながら銀座の方へ歩きだした私に,「オフト」と聞こえてきて足をとめた。

 2008年12月末のことである。北海道の新聞社を定年退職したばかりの札幌に住むAさんが,「オフトって知ってますか?」と電話してきた。Aさんとは介護老人ホームを取材する仕事で知り合い,この10年,私が札幌へ行くと会う酒友だちだ。
 「オフト?地方競馬の馬券を売るオフト後楽園というのなら知ってるけど」
 「それ,それです」
 「オフトがどうしたの?」
 「与太のことなんですよ」とAさんは溜息をつくように言った。私の前でだけAさんは,33歳になる息子を与太と呼ぶ。

 与太は東京の大学を中退して札幌に戻り,建築会社で働いたが長続きせず,引きこもりのようになったり,ガソリンスタンドや居酒屋で働いてはやめたり,いっこうにはっきりしないので,Aさんの頭痛のタネだった。30歳すぎたころ,牧場で働きたいと言いだし,どこか紹介してほしいと言ってきた与太を「本当に牧場で働きたいのなら,おれなんかを頼らずに自分で探せ」と私が突き放したら,半年後,浦河の牧場に住み込んだと連絡が来た。

 2年半ほど牧場で落着いた息子にAさんも喜んでいたのだが,2008年10月,札幌に来た息子が浦河へ戻ろうとしない。牧場をやめた理由がよくわからないAさんは,さっぱり反応しない息子に苛立ち,かなり激しい罵声を浴びせてしまったようだ。住む場所が決まったら連絡する,とだけ書いたメモを玄関に置いて,与太はいなくなってしまった。

 12月末のAさんからの電話は,その与太のことなのである。「与太の高校時代の友だちが東京の印刷会社にいるんだけど,その彼が正月休みで帰ってきていて,札幌駅前でわたしとばったり会ったんだわ。そしたら10日ぐらい前に,その友だちは仕事で通りかかったんだけど,オフトとかで馬券を買ってる与太と会って,コーヒー店へ行って話をしたというんですよ。友だちは,まさか息子が家出中とは知らんわけ」という話で,もしオフトとかいう所に行くことでもあったら,なんとなく気にしてもらえないか,とAさんの声はセツなかった。

 そのセツない声が新橋で聞こえてきて私は,銀ぶらをやめて水道橋へ向かったのだ。昨日は成人の日,今日は3連休明けの寒い日,水道橋駅前の歩道も冷えきっているようだった。水面にビルを映した黒っぽく見える川の橋を渡ると,そびえている黄色い建物はJRAのウインズ後楽園である。そのとなり,壁に草色を塗った建物がオフト後楽園だ。

 オフト後楽園はせまくて,人がひしめいている。外にゴミ函付きの丸いテーブルが並んでいるが,そこはたまらない寒さだ。浦和開催日で,3時45分発走の第10R,中央競馬交流のマルチビクトリー特別の発走9分前だ。与太がここにいたのか。馬券をやっていたと?馬券を買う元気があればいいじゃないか。しかし,親に,どこに住んでいるかを知らせないのはダメだ。

 浦河の牧場でも会っている私は,与太のひょろひょろっとした身体つきや,女形に向いていそうな顔を人ごみのなかで探している。そんな簡単に会えるわけないじゃないかと思い,会うかもしれないとも思い,私は人ごみの隅っこに立って刑事のような気分になっていた。そうか,オフトにいて馬券を買わずにレースを見るのは,パンツをはかないでズボンをはいているようだな。それに浦和競馬にたいして失礼だ。私は鞄に入れてあるスポーツ紙を出した。

 馬券発売〆切り2分前。ポケットに500円玉が2個あり,その1個で,1番人気⑨戸崎圭騎乗ドリームウインから,9番人気⑦丸田恭騎乗エターナルフラワーへの馬単を買った。11頭立てのゲートが開いて初めは静かな人ごみで「2番,2番,2番」と叫び声が上がると,その声に負けぬぞと言わんばかりの,「4番,4番,4番」という叫び声が湧き,「前,あけ,あけろ,あけてくれ」という声をはさんで,「11番,11番,11番」とわめき声が起きる。

 勝ったのは1番人気の⑨で,2着は⑥の坂井英騎乗で8番人気のジュセトウ,3着が⑦のエターナルフラワーだった。馬単⑨-⑥は3670円。私の⑨-⑦はくやしいではないか。「クソッ,6番,最後まで迷ったんだよなあ。シルシあったしなあ。どうしてこうなるのか,いつもこうなっちゃうんだよなあ」というひとりごとが,「世の中,甘くねえなあ」というひとりごとが,「ったく,もう。ったく,もう」というつぶやきが私の耳に入ってくる。どれもこれも,自分のひとりごとのように思えるのだ。

 馬単を買って1着3着。冗談じゃないぞ。私は人ごみを離れて,「鉄板焼なには」とか「ロバートブラウン」とか看板のある店の前の丸テーブルへ行った。そこは風がきて寒いけど,人ごみより空気がよい。しかしそこでも,ひとりごとや会話が聞こえてしまうのだ。

 「ガラガラ婆ちゃん,どうしたかなあ」
 「そういえばブツブツ爺さんも,しばらく顔を見てないなあ」
 「ブツブツ爺さん,死んじゃったのかね」
 「死んじゃったかもしれねえ」
 「死んじゃったかあ」
 という老人たちの会話である。

 「おいおい,簡単に死んじゃったとか言ってもいいのかよ」と私は言葉をはさみたくなったが,オフト仲間というのがあるんだろうなあと,絵を見るように目をやった老人たちの足もとに一羽のハトがいた。第11Rは福寿草特別,11頭立てである。1番人気は②の石崎駿騎乗のベルモントバリオス。第10Rで勝った戸崎圭騎乗のケイジーウィザードは⑧,3番人気である。「もう一丁,戸崎に勝ってもらいやしょう」私は心のなかでそう言って,人ごみに戻って馬単の⑧-②を1000円買った。

 人ごみの中で私は,人ごみを見ていた。ここにいる男たち,火曜日の寒い昼間,馬券を買って,元気なものだなあと感動しながら,浦和競馬に関係する人たちが,この光景を見て何か感じてほしいなあとか思ったりした。そして与太よ,オフト後楽園で無数の人間を見て,親に現住所を知らせないのはダメだと感じてほしい。そうも私は思った。

 第11Rのゴール前,勝ちそうな⑧番が負けそうになり,負けそうになりながらも踏んばって②番と馬体を合わせ,ほとんど同時にゴールインした。写真判定である。②-⑧なら私の馬券は紙クズ。⑧-②なら私はゴキゲンになる。「頼む。②-⑧」ととなりの老人がテレビへ合掌していたので,⑧-②と結果が出ても,私は声をのみこんで人ごみを離れた。

 オフトから帰って行く人たちを私は,路上に立って見ていた。与太を探していたのである。いちだんと風は冷えきっていたが,馬単の1点買いが当たったので寒くはなかった。
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