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第185便 さくら幻想

2010.05.10
 今年の関東地方の春は雨の日が多くて,冬に逆戻りしたような寒い日も多く,「風冷えて咲くに咲けないさくら花」なんぞと句をひねっていたが,「今週もタラレバ食ってハズレ花」と笑うしかない私の週末は相変わらずである。
 ところが4月4日,阪神の最終レースにマルブツサクラオーが浜中騎乗で出走していて,おまけに桜色ヘルメットの8枠。それにメインの大阪杯で浜中はテイエムアンコールで勝って気分もよかろうと,14頭立て5番人気マルブツサクラオーから馬連4点を買い,「浜中や咲いておくれよアタリ花」祈っていると,2着に来てくれて36.7倍が的中。どこかでソメイヨシノに混じって,マルブツサクラというのが咲いているのではと思った。

 たまに馬券が当たると,身体の動きがよくなるのである。2010年4月6日,晴れた火曜日の朝,さいたま市浦和区の老人ホームにいるヒロさんの顔を見に出かけた。「面会に行ったら父さんが,今おれがいちばん喋りたいことは,くそじじいにしかわからないから,早く会いたいって言ってくれ。おまえなんかに話しても仕方ないって」

 そんな電話をヒロさんの娘さんからもらったのは半月ほど前だ。

 鎌倉駅へのバスは行ったばかりで,バス停のベンチに腰かけ,通りをへだてた家の庭で咲く満開のさくらを眺めた。
 「バス停でさくらに惚れるくそじじい」
 と句をひねって私は,こうしてバスを待っているというのが,人生の幸せというものだなぁと思い,くそじじいにならなければ,そんなふうに感じないさ,とさくらの花に伝えた。

 浦和駅に着いても私は,バス停にいた。バスを待つのが私は好きなのである。そういう人生なのだ,と誰にともなく言い,だから出世できなかったし,金持ちになれなかったと思うと,
 「バス停で言いわけしてるくそじじい」
 
 また「五七五」で遊んだ。家を出て3時間近く,やっと老人ホームに着いたのに,

 「いないの?」
 がっかりだ。ヒロさんは内臓の検査でヘルパーと病院へ行っているのだった。そのヘルパーに連絡をとってもらうと,午後1時ごろには帰れそうだという。今,12時。

 「待たせてください」
 私は老人ホームの庭のベンチに坐った。2本のさくらが見事に咲いて占領されている庭。そこに私しかいなくて,
 「くそじじいさくら吹雪をひとりじめ」

 なのだった。ヒロさんは長い年月,2003年11月まで開催されていた上山競馬の厩舎で働いていた人である。取材で知りあい,それから上山へ行く私は,ヒロさんと酒を飲むのを楽しみにした。上山競馬が廃止になる年の春に病気をし,奥さんに死なれてひとり暮らしだったヒロさんは,娘さんが嫁いでいた浦和へ移った。

 「カガリスキー,おぼえてるかい?」
 さくらの花を見あげながら私は,去年の秋に,この同じベンチでヒロさんが言ったのを思いだした。カガリスキー(父ホリスキー,母イワカガリ,母の父バンブーアトラス)はヒロさんのいた厩舎とは関係がない。1995年9月17日,上山での北日本オークスを,小国博行騎乗で勝った馬で,ヒロさんと一緒にスタンドで見ていたのである。
 
 水沢での東北優駿に続く1着で,このあとは笠松のライデンリーダーとともに京都のローズステークスに出走し,エリザベス女王杯の出走権を狙いに行く。その年の10月20日がローズステークスだった。安藤勝己騎乗のライデンリーダーは3着に食いこんで女王杯の出走権を得たが,板垣吉則が騎乗したカガリスキーは,16頭立て16着,それも大差の入線だった。

 「あれから何年たっているのかわからんほど昔のことだっていうに,今でもなあ,ときどき,テレビで見てたカガリスキーのボロ負けを思いだすんだよ。あのときのがっくりは,かあちゃんに死なれたときと同じくらいにこたえたわ。まだ何日か前のことだよ,夢で,久しぶりに競馬が出てきて,おれが必死に応援した馬が勝ってさ,泣くほどによろこんでるんだ。どうもな,その,夢で勝った馬がカガリスキーでな,中央の馬たちを負かしたみたいなんだ。どうしてこんなにカガリスキーが頭に残ってるんだべね。自分がやった馬でもないのにな」

 そんなことを言ってヒロさんはしきりに首をかしげ,「おれにとっちゃ,夢に出てきてほしい上山の馬は,ほかにいっぱいいるのにな」と笑うのだった。
 
 去年の秋のヒロさんを思いだしながら,今,いちばん喋りたいことって,どんなことだろうかと私は想像した。少し認知症も出てきたと娘さんが電話で言っていたから,上山競馬の廃止を忘れ,上山へ帰りたいなんて言いだすかもしれない。そう思って,ひらひらと降ってくる花びらを私は手のひらに受けた。

 こんどの日曜日は,阪神で第70回桜花賞である。アパパネ,アプリコットフィズ,アニメイトバイオ,オウケンサクラ,ギンザボナンザ,コスモネモシンたちが私の目の奥のパドックを歩きはじめ,その輪のなかにカガリスキーがいて,ヒロさんと私が競馬場で見ているのだった。

 「なんで上山の競馬が消えてなくなっちゃったんだ。仕方ないんか?」いったい何度,酒に酔ったヒロさんに私は絡まれたろう。
「上山のカガリスキーが,アパパネやアプリコットと戦うぞ」ひらひらと舞い落ちてくる花びらを目にしながら,私は心でヒロさんに言っている。

 「がんばれ,カガリ」ヒロさんの声が私の耳に入ってきた。

 午後1時,さくらの下で私は待っている。

JBBA NEWS 2010年5月号より転載
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