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第212便 新橋の「パドック」

2012.08.13
 7月3日、新橋駅に近い内幸町ホールにいた。「第14回けやき会、もの語りの世界」。その昼の部である。客席は満席だった。
 フリーのアナウンサーである4人の女性が順番に、舞台中央の台に腰かけ、それぞれの演目を語る。照明と音楽はひかえめ。
 4番目が深野弘子さんで、ゆきのまち幻想文学賞受賞作品、宇多ゆりえ「おいらん六花」を語る。吉原が舞台の話だ。

 昔、昭和50年代、深野さんはラジオ日本の競馬中継のアナウンサーとして人気者だった。今はすっかり競馬と離れてしまった彼女だが、ときどき便りのやりとりがあり、語りを聞いて、と声をかけてくれる。
 声をかけてくれるのって、うれしくて、ありがたいことだなあ。どこからも声がかからなかったら、さびしくて元気がなくなる。
 「ありがとう」と私は心で、語りをはじめた深野さんに言った。

 語るというのは演じるということである。演じている深野さんを見ながら、声を聞きながら、深野さんは話の舞台の吉原に近い浅草の生まれ育ちで、今も浅草で暮らしているのだと思ったら、私の頭に「おれの浅草」がちらついてしまった。

 20年も前のことだけど、浅草寺の裏手にあった小料理屋「和尚」でよく酔っぱらっていたなあ。
 酒をのむと時間にだらしなくなって、電車がなくて安ホテルへ泊まった。
 ホテルの部屋で目をさました。おれ、どうしてかネクタイもはずしていなくて、背広も着たまま。靴もぬいでいなくて、フロアにケツついて、入口のドアに寄りかかって眠ってたんだ。
 何やってんだよ、おまえさん。てめえに呆れていると、ゴーン。すぐ近くで、浅草寺の鐘が鳴った。
 ゴーン、ゴーン、ゴーン。

 あっ、ごめん、自分が語りをしてる場合じゃない。私はしっかりと、深野さんを見た。演じている深野弘子の幸せが私に伝わってきた。

 昼の部が終わり、語り手たちがロビーに来て、知りあいたちと会っていた。
 「手紙を書くね」
 私は深野さんにそれだけ声をかけ、ホールを背にした。

 いちども外へ出ずに新橋駅へ行けるのだった。午後4時20分。ハンパな時間だ、と思いながら、新橋駅のなかにある「パドック」という店に座った。通路に面していて壁も出入口もない小さな店で、コーヒーショップのようだがビールものめる。波止場の待合室のようだ。

 客はちらほら、4人か5人。ビールをのんでいる人はいないが、私はビールをのむ。
 「パドック」は昔、新橋駅のなかの別の場所にあった。現在の場所になってからも、15年ぐらいが過ぎているかなあ。1枚だけ、馬のいるパネル写真が壁面にある。「パドック」という店名なので、経営者は競馬好きにちがいない。

 家へ帰るのに新橋駅で横須賀線に乗ることが多いので、美術館の帰り、映画の帰り、仕事の打ち合わせの帰り、おれ、決まったように「パドック」に寄り、ひとりでビールをのんでいるよなあ、昔から、と私は思った。

 感じ方、考え方に、ひねくれたところのある私は、「パドック」で、何も計算をしていない気持ちになって、見てきたばかりの絵について、見てきたばかりの映画について、会ってきたばかりの人について、自分の思いを自分に語っている。

 そうか、この「パドック」は、おれの、「もの語りの世界」を演じているステージなのだ。そう思って私は、近くの丸テーブルに両肘をついて何やら考えている表情のネクタイ男に目がいき、50代だろう彼も、今、自分が自分に語りかけているにちがいないと推測をした。

 誰かに語りかけたいこともあるけれど、ひとりごとを頼りにして、それで人生は過ぎてゆくよなあ。ちがう?
 そんなふうに感じて、ぼんやりしたとき、私は背中を軽くノックされた。
 コーヒーをのせた皿を手にしたAさんだった。
 「あら、びっくり」
 私がいたのはカウンター席で、となりが空いていたので、どうぞ、と手で言った。
 「すぐ、わかった」
 とAさんが笑いかけ、
 「うしろからだと、おれ、すぐわかるみたい」
 と私はハゲ頭を手で隠すようにして笑った。

 商社マンである50代半ばのAさんは社台グループの共有馬主クラブ会員で、牧場ツアーで一緒だったり、競馬場で出くわしたりする。
 「ずいぶん会ってなかったなあ」
 「去年も今年もツアーへ行かなかったし」
 と言ったAさんが、これから汐留の会社へ戻って、6時半になったら自由になるので、おつきあい願えないかという。

 6時半に私は、銀座のビヤホールでAさんと会った。
 「ときどき、あのパドックという店に座りに行くんですよ。じつは去年の3月10日でした。尊敬していた看護学校時代の恩師が虎ノ門病院に入院していて、妹がお見舞いに、陸前高田から来たんです。
 夕方、妹がケイタイで、今、新橋駅のパドックというお店にいるのと言ってきて、それであそこで会って、妹が、こういうお店っていいなあ、いかにも都会だって言うんで、妹もビールになって、ずいぶん長いこと、あそこで話をしたんです。
 妹が帰ったあくる日が、大地震、大津波。いなくなってしまって、妹に死なれてしまって、はじめてぼくのなかで、妹という存在が生きたというか、なさけない奴です、ぼくは。あのパドックという店に、ぼくは会いに行くんですよ、妹に」

 「Aさんの故郷、陸前高田だったのか」としか私には言葉がなかった。

 もう1軒、つきあってほしいと、Aさんが行きつけの、新橋の小さなバーに私は座った。
 「ここでは、妹の話、しません」とAさんが私に耳うちをする。黙った私は、内幸町ホールでの「もの語りの世界」が、まだ続いているような気がした。
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