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烏森発牧場行き

吉川良 烏森発牧場行き

第246便 すずめの涙

 3年前の春の夕方のこと、鎌倉の海岸通りにあるパブのカウンターでビールをのんでいると、近くにいた青年が競馬新聞を読みはじめた。

 「今週は日経賞ですね。思いだしちゃうなあ、テンジンショウグン」
 と競馬好きの白髪のマスターがカウンターの奥から私に言った。
 テンジンショウグンが現役馬のころ、その馬主の清水道一さんと私はよく会っていて、東京競馬場のパドックの近くで、清水さんにマスターを紹介したことがあったりし、馬主が「テンジン」の馬が重賞レースに出走すると、人気があろうとなかろうと、マスターは単複各千円の馬券を買った。
 江田照男が乗った1998年の日経賞のテンジンショウグンは12頭立ての12番人気。それで勝ってしまい、配当が単勝3万5,570円、複勝が4,700円。マスターは友だちを江の島の民宿に招いて宴会をした。
 客が私と青年しかいなかったので、そのテンジンショウグンの騒ぎをマスターが話すると、
 「明日の江田照男のネコパンチを買いたくなっちゃうなあ」
 と青年がひとりごとのように言い、
 「今日、ぼく、5年はたらいていた家具工場が廃業で、工場の奥さんから、すずめの涙だけどって、3万円、感謝金というのを貰ったんですよ。
 そのすずめの涙というやつの記念を、今、テンジンショウグンの話を聞いたという記念につなげて、江田照男のネコパンチの単複を千円ずつ買うことにします」
 そう笑うので、なんだか私はとてもうれしくなり、拍手をして、もう一杯、と青年にビールをおごった。
 奇跡が起きた。14頭立て12番人気のネコパンチが大逃げを打ち、なんとそのまま、逃げきってしまい、単勝1万6,710円、複勝1,560円の配当で、青年は私とマスターを焼肉屋に招待してくれ、その晩、私は青年に、「ネコパンくん」という名をつけた。

 それから2年ほどしてネコパンくんは、ドラマのワンシーンのように私の前に登場した。月に1度、私が診察を受ける大きな病院の採血のブースでネコパンくんがはたらいていたのである。
 女性の声がマイクを通して、
 「お待たせしました。番号札28番の方、採血室5番ブースまでおこしください」
 と言い、私が行って係員の顔も見ずに腰かける。
 「生年月日とお名前をお聞かせください」
 と男子係員の声。答えて私は右腕を台に置く。
 「アルコールやテープでかぶれることはありますか?」
 「ないです」
 「いつも右腕ですか?」
 「ハイ」
 「ちょっと、チクンとします」
 言われて私は親指を握り、採血がはじまる。
 「お気分は変わりませんか?」
 「大丈夫です」
 「おわりました。5分ぐらい、おさえていてください」
 「ありがとうございました」
 「採尿のコップをお渡しします」
 と渡されて、ちらりと顔をあげ、私はびっくり。男子係員は笑いをこらえていた。ネコパンくんが私の採血をしたのだった。
 それから何度か、私はネコパンくんといっしょに競馬場へ行っている。2015年5月10日、NHKマイルCの日もいっしょに東京競馬場にいた。

 東京10RブリリアントSのパドック。ダート2100㍍、16頭立て。
 「もう、カネ、ない。これがアウトなら、今日は、オシマイ」
 ネコパンくんはつぶやき、
 「このレースだけは単勝に自信があるなあ。背水の陣で、単勝1点勝負、2千円」
 と買った岩田騎乗のドコフクカゼがきっちりと勝った。単勝230円。
 「かすかに生きのこりました」
 とネコパンくん、
 「じつは、新潟大賞典のダコールが、ぼくの今日の勝負馬券なんですよ。ダコールという馬名が好きなんです」
 そう言ってダコールの単複を各千円買った。
 「みごと!」
 私がネコパンくんの背中を叩く。小牧太のダコールが勝ち、単勝1,070円、複勝370円の配当で、ネコパンくんの目に元気が光った。
 「ヨシカワマコトさんと競馬場に来ているのだから、カネがなくならないうちにと、昼に買っといたんです」
 とネコパンくんが私に見せたのは、京都11R鞍馬Sの田中健騎乗のマコトナワラタナの単複各千円。それに新潟12R飛竜特別の、津村明秀騎乗のヨシカワクンの単複各千円の馬券。
 鞍馬Sのゲートがあいた。
 「マコトくん、頼むよ」
 場内テレビを見上げてネコパンくんがつぶやき、馬群が直線にきて、それっ、と声がはじけたが、1番人気のマコトナワラタナははじけず、
 「まことに申しわけない」
 と私があやまった。
 NHKマイルCは私もネコパンくんもはずし、新潟の最終のヨシカワクンに期待するしかなくなった。 
 ゲートがあき、テレビで、ハナに立ったヨシカワクンを、私もネコパンくんも見つめた。1,000㍍の直線のレースである。後半に後続馬に追いあげられたが、ヨシカワクンが踏んばって1着。うれしさがこみあげて私は黙り、ネコパンくんもずいぶん黙りこんでいた。
 帰りの電車で、
 「結婚しようと思っている彼女に会ってください」
 とネコパンくんが突然に言った。看護師をしている彼女が、鎌倉の海岸通りのパブで待っているのだという。
 「ときどき、家具工場の奥さんの、すずめの涙という3万円を思いだすんです」
 それも突然にネコパンくんが言い、
 「すずめの涙が人生では大切なんだよ」
 私も突然のようにそう言っていた。