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第278便 手帳、昔のひと

2018.02.09
 戸崎騎乗のアーモンドアイが第52回シンザン記念を勝った日の夜、
 「大野です。大野きよの息子です」
 と電話がかかってきた。
 大野きよが息を引きとっていたのだった。八十八歳だった。
 その晩、私はひとりで「大野きよ」の通夜をすることにした。私が大野きよの家へ遊びに行ったとき、きよさんが私にしてくれたように、コップに半分、一升瓶から酒を注いだ。
 そうか、写真を置こうか。アルバムのある二階へ行き、探すのに手間どったが、千葉県の富里にあった社台ファームで、馬といっしょにきよさんと私がいる写真を見つけた。写真の下に「ダイナアクトレス」という馬名が書いてあった。
 「いやぁ、きよさん、大野きよさん、ご苦労さまでした」
 と私はコップ酒を顔の高さにまで持ちあげた。
 大野きよと私がやりとりしたハガキは何通ぐらいあるだろう。かなりの枚数にちがいない。そのうちのいくつかには、きよさんの手芸の、和服の端切れで巧みに作る、小さな花や魚や小鳥が貼ってあった。

 明治の半ばに紀州で生まれた釜池岩助は騎手になり、カラフトあたりでも活躍したようだ。昭和三年、社台牧場を始めた吉田善助に請われ、昭和五年に調教主任として社台牧場に入った。きよさん、二歳のときである。
 その後、釜池岩助が移った関西で学生生活をしたきよさんは、成人して千葉の社台牧場に就職。善助の子の吉田善哉に仕え、よく働き、よく気もまわるので、「千葉の女場長」などと呼ばれた。
 川越生まれの大野清五郎と結ばれる。実直にはたらく清五郎は寡黙の人。黙る男としゃべる女の名コンビの誕生だ。
 「きよさん、あっちで、吉田善哉に会えるかなぁ。会えたらいいね」
 と私はコップ酒をしみじみとのんだ。ああ、最近、こんなふうに、しみじみと酒をのむことが増えたなぁ。うーん、それにしても、おれは、生きてる。なんだか、生きてるのって不思議だ。
 そんなふうに思っていると、千葉の牧場に泊めてもらった夜になり、風呂から出てきた善哉さんが、ビールをのんでいた私の前で、「とらや、とらや」と言いながら、羊羹を食べはじめ、誰かが来る気配がして善哉さんが、その羊羹の皿を私の前におしつけた。
 部屋にきよさんが入ってきて、何かを手にして出て行った。
 「間一髪、セーフ。夜おそくに甘いものを食うと、看護婦長のように説教するからね、きよは」
 と笑いながら善哉さんは、皿を引き寄せ幸せそうに「とらや」を食べた。

 忘れられない大野きよの手帳がある。大判で黒い表紙だ。私が忘れられないのは、その手帳に、「昭和三十七年三月五日、ガーサントの展示会がおこなわれる」
 と書かれていたからだ。ノーザンテースト、サンデーサイレンスと、吉田善哉の種牡馬購入は記憶されるが、それまでの、先ず吉田善哉を支えた種牡馬はガーサントなのだ。
 「ファックスのある今では考えられないけどね、わたしたちは、大至急の用件は電報を使う時代に育ってるのよ。
 電話だって北海道と千葉では、いちいち申しこみでやらなきゃならない。どんな用事だって、だいたい3分以内の電話で済まさなければならないの。善哉社長のことだもの、あれはどうなってるって、白老の牧場から、しょっちゅう聞いてくるわけ。
 すらすら答えられなかったら、それこそ北海道から石が飛んでくる。だから千葉にいる馬のことも、こまかく手帳に書いてないとダメ。
 善哉社長、わたしたちに、作業日誌はきちんと、かならず書けって、うるさく言っていたわ」
 ときよさんが思い出話をしたのも忘れられない。
 のちに大野清五郎ときよは、軽種馬協会千葉県支部で働いていた。
 「これ、わたしの人生、そのもの」
 ときよさんが私に、ダンボール函に詰めこんだ無数の手帳を見せたことがある。
 そのときのことを思いだそうとしていると、社台ファーム(社台牧場から改名)の白老で吉田善哉から、「とりあげ名人」と呼ばれた佐藤実さんの顔が浮かんできた。馬のお産に関しては、佐藤実にまかせておけば、何の心配もないというのである。
 昔、私が佐藤実さんと白老で会ったとき、
 「わたしの宝物は、これしかねえなぁ」
 と戸棚に積んであった手帳の山を見せられた。
 「昭和四十九年二月十一日。月曜日。晴天。午後ニワカ雪。貞子帯広より帰宅する。プリーズターフ腹痛ぎみ。ロイヤルレギーナやに付く。片山、佐々木泊。夕食、ヒラキニシンとイナリ、のり巻きずし。菊地の妻来宅。馬運車千葉より上り6頭。係、松浦、伊藤」
 と書いてあるページ。「ロイヤルレギーナやに付く」、の「やに付く」は、繁殖牝馬の乳頭に透明な液体が光って、出産が迫っているということだ。

 佐藤実さんの手帳のことを思いだしていると、調教師を引退して間もない松山吉三郎さんを、東府中の家へ訪ねた日が浮かんできた。
 「あなたに見せたいものがあるなぁ」
 炬燵で茶をのんでいた松山吉三郎さんが笑い顔のようになって腰をあげ、しばらく奥へ消えたのち、ダンボール函をかかえて現れた。
 ぎっしりと手帳が詰めこまれたダンボール函だった。
 「一日が終わると、馬のことも、人のことも、何もかも書いたね。とくに、くやしいことがあったときは、それを書いてね、今に見ていろって。そう思わないと、やってこられなかったよ。つらいことや、くやしいことが、やたらにあったからね、手帳に書いて、なんとか希望を持ち続けなければ、とっくにどこかへ逃げだしていたよ。手帳が頼りだったね」
 松山吉三郎さんの手帳には、乱れのない小さな字がしっかりと詰めこまれていた。
 「きよさん、さようなら。手帳、古いひと。ご苦労さまでした」
 と私はもういちどコップを持ちあげた。
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