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プロフィール
SEAMOさん

愛知県出身
95年より地元名古屋、東海地区を中心にシーモネーターとして活動開始。
02年、待望のメジャーデビュー。
05年にSEAMOに改名し、06年4月にリリースしたシングル「マタアイマショウ」が大ヒット。
その年のNHK『紅白歌合戦』にも出場した。
ヒップホップ界をリードするカリスマラッパーのひとり。
09年に地方馬主資格を取得している。

音楽界でも屈指の競馬通として知られるラッパーのSEAMOさん。
最近ますます競馬シーンへの登場が増えた彼にインタビュー。まずは競馬への入り口から聞いてみた。

「ファミコンのダビスタですね。小学校の高学年ぐらいだったと思うんですけど、あれをやってた子供たちは、幼いながらノーザンテーストとか、マルゼンスキーとか知ってましたから(笑)。
競馬って強いお父さんとお母さんを合わせて子供が生まれてレースに出るんだって。このゲームで奥深さを知りましたね。
また地元が愛知県の一宮というところで、ちょうど笠松競馬場が隣りにあったんですよ。ボクらが中学から高校の頃、オグリキャップの存在がものすごく大きくて。その頃はオグリキャップ、イナリワン、スーパークリークなどがしのぎを削っていた時代。地方の馬が中央に殴り込みをかけて、エリートを負かすってすごいことだなと。オグリキャップ・ブームがボクにグッっと競馬への興味を抱かせたのは確かです」。

GIの馬券を買って、当たったハズれたの話に花を咲かすレベルから、さらに深みにハマったのは共有クラブでの一口出資がきっかけに。

「ある時、競馬雑誌を見ていたら、一口馬主の広告が出ていて。ダビスタやってる時に実際に馬が持てたらすごいなと思ったけど、ダビスタの中でも馬は何千万円ですから(笑)。そんなの無理だろうと思ってたら、一口馬主というのは1頭の馬を何百人で割るので、数万円から出資できると知って。これだったら自分でもできるんじゃないかとパンフレットを取り寄せたんです。そしたらもう車のパンフレットを見るのと同じで、『うわっ、うわっ』と(笑)。よく知ってるタイキシャトルやスペシャルウィークの子が出てるんですから。
いろいろ調べて、最初に入会したのがウインレーシングクラブ。当時、少数精鋭ながら好成績を挙げていた。10年以上前ですかね、ラッパー始めてて、メジャーデビューするとかしないかという時。お金なんて全然なかったけど、ソコソコの馬を分割で買ったのを覚えてます。
その時は何もわからないから、自分の馬がGIを勝つことしか想像してなかった(笑)。ところが最初の馬が調教中に死んでしまったんです。レースに出て活躍することしか考えてなかったから、最初は意味がわからなくて。悲しいのはもちろんなんですけど、自分が出資した馬が1走もすることなく、天に召されてしまったことを受け入れることができなかったんです。それで知りましたね、競走馬がデビューを迎えるのって本当に大変なんだと」。

そして念願の初勝利。

「初めて勝ったのは、ウインプレミアムという馬。正直、レースに出走するまでに出資から2年(笑)。初勝利までかなり時間が掛かりました。1勝するのがこんなにうれしくて、感動するのかと。重賞なんて勝っちゃったらとんでもないことになっちゃうんだろうなと。でもここから泥沼にハマっていくんですけどね(笑)」。

今では重賞に駒を進める馬にも多数出資しているSEAMOさんに、馬選びのポイントも聞いてみた。

「ウインだけじゃなく、ターファイトクラブ、キャロットクラブ、ブルーインベスターズ、今だと東京サラブレッドクラブ…。興味のある馬がいるクラブには入れ替わり立ち替わり入会して出資してきました。口数の大きい、小さいを抜きにすると、今現役で30頭ぐらいいるから、これまでに50頭は出資してきましたかね。
少し経済力が付いてからは、社台、サンデーにも出資するようになって。
最初は種牡馬しか見なかったんですけど、母系も大切なんだと知る。ブラックタイプとか、お母さん自身が優秀だとか、上が走ってるとか。でもそうじゃない馬でもすぐに満口になる馬もいる。何でだろうと調べたら、皆さん、調教師で選んでたんですね。
さらに強い馬が欲しい、強い馬が見たいと追求していくと、〇〇牧場の生産馬が強いのかと。牧場に行かせてもらって馬を見せてもらうと、やんちゃなヤツもいれば、大人しいヤツもいて、1頭1頭に性格があると知る。
クラブの牧場見学ツアーにも行って、最初は隣りの人とのぎこちない会話だけだったんですけど、どんどん知り合いが増えていくと、馬の見方も変わってくる。足元に不安が無いか、つなぎが立ち過ぎてないか、馬体重は適度なところに収まるのがよく、飛節、背中、首の長さ、目…。パーツ、パーツで見るようになるともう止まらない(笑)。
でも品のある馬にはハッとさせられるんです。ツアーのバスの窓越しに遠くから見て目立っていたヤツ。遠くからオーラを放ってる、黒光りしているあの馬は何だってね。近くで見ると周りを圧倒してたりするんです」。

できるだけ数を見ること。できれば実馬を多く見るということか。
SEAMOさんにとって、一口馬主ライフとは?

「まだ結婚もしてないし、子供もいないんですけど、お父さんが子供の運動会にビデオを撮りに行く感じですかね。パドックで写真をいっぱい撮って、無事に走ってきてくれよと祈り、一喜一憂する。
自分の子供の成長を見守るように競馬と向き合える。それが一口馬主の魅力だと思います」。

そして09年に地方の馬主資格を獲得。

「社台の地方オーナーズで20分の1出資。ステップですかね。次は中央の10分の1を出資したい。でもそれには中央の馬主資格を取らないといけないから。遥か高いところにあるけど、いつか辿り着きたいと思ってます」。

そんなSEAMOさんには夢がある。

「例えばセリに行って、自分が手を挙げた馬で一人馬主になって、自分でちゃんとリスクを背負って馬を走らせる。そんなところにいつかは行きつきたい。そのためには本業をもっと頑張って、経済力をもっともっと身につけなきゃいけないんですけど。
前川清さんのコイウタっているじゃないですか。前川さんは自分の代表曲を馬の名前に付けた。で、GIを勝って、自分の楽曲を再発してプロモーションにも使った。アーティストとしてはすごく夢があるなと。
ボクの中ではやはり“マタアイマショウ”。実況アナウンサーがゴール前で『マタアイマショウ!』と馬名を叫びながら何か名ゼリフを生み出してくれそうな気がして(笑)。でもその名前を付けるには相当自信がある馬、本当に期待できる馬に付けたい。
たまにライブで『自分の馬がGI獲った時はオレがマイクを置く時だ』なんて冗談で言うと、ファンからは『そんなことで置かないでくれ』って言われちゃうんですけどね(笑)」

そして最後にこんなエピソードも教えてくれた。

「一度“シーモネーター”という名前でメジャーデビューして、そんなに売れるでもなく契約が切れて。どこに自分のデモテープを持って行ってもいい返事が聞けなかった。そうこうしてるうちに仲間やライバルがどんどんヒットを飛ばしていくのを見て、自分がすごく惨めになった時期があったんですよ。
そんな時にTVでハルウララのドキュメンタリー番組をやってて、ひとりのおばあちゃんがハルウララに手紙を書いたと。
おばあちゃん、リウマチが痛くて、こんなに辛い日々ならいっそのこと死んでしまいたいと思ってた。でもハルウララのことを知って、競馬場に行ってみた。負けても負けても走ってる馬がいる。あなたを見てると、私も病気だけど頑張らなくちゃって手紙が紹介されてるのを見て、当時の自分がダブったんでしょうね。大号泣しちゃって。オレも頑張んなきゃいけねーなと。負けても負けても出続けてれば夢も持てるし、ここで諦めちゃいけないんだって。
馬は走るために生まれてきたからこそ、実力が無ければ淘汰されてしまう。それはオレたちの世界でも同じこと。負けても負けても走るハルウララに、あの時、勇気をもらったんですよね。
オグリキャップの本当のすごさも、大人になって、こういう仕事に就くようになってわかった。ヒップホップって、ご当地音楽みたいなところがあって、地場に貼り付いてるアーティストがいて地元をレペゼン(代表するの意)して頑張ってるみたいなところがある。
当時はオグリキャップが地元出身で、エリートたちを負かす姿が痛快だぐらいに思ってたんですけど、それがいかにすごいことか。オグリキャップ自身がエリートじゃないのに、中央で活躍したのは実に偉大なこと。
ボクが名古屋に住みついたまま音楽をやってるのも、オグリキャップがいいお手本を見せてくれたんだって。オグリキャップの頑張りに、地元の人間は夢を抱いたんですから」。

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