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プロフィール
荻野亮さん

1972年9月24日生まれ
東京都出身
荻野石材株式会社は天明8年創業
荻野さんは約220年続く石材店の9代目
1995年亜細亜大学経済学部経済学科卒業
同年日東カストディアル・サービス株式会社入社
1997年荻野石材株式会社入社、現在に至る
2009年JRA馬主資格取得

2010年のJRAブリーズアップセールに、唯一上場されたディープインパクト産駒(タイランツフェイムの08・牝)を落札した荻野亮さん。ところが荻野さんは、ディープインパクトの走りをリアルタイムではほとんど見ていないと言う。それは一体どういうことなのだろう。順を追って話を聞いてみた。

「バンブーメモリーの安田記念の頃(89年)ですから、私が18歳ぐらいだったと思います。両親共に競馬が好きで。ほら、競馬ブームだったじゃないですか。みんなで馬券を買っているのを見て興味を持ち始めた感じですかね。」

好きだった馬は?

「私はオグリキャップでしたね。一生懸命走る姿…。特にあの年のジャパンカップの2分22秒2、ホーリックスのレコードと同タイムの2着が競馬の原点ですかね。二の脚を使ってホーリックスに食らい付いていった姿勢に鳥肌が立ちました。オグリキャップを見てからですね、競馬にロマンがあるんだなっていうのを強く感じたのは。私もいずれこんな馬を走らせてみたいというのが夢になりました。」

オグリキャップが与えた鮮烈な印象は、その後の荻野さんを熱烈な競馬ファンへと変えていった。

「大学時代も競馬好きの友達がいたのでよく見てましたよ。でもオグリの走りが忘れられなくて(笑)。社会人になってからは毎週のように競馬場に足を運んでました。
ヒシアマゾン、ナリタブライアン、ビワハヤヒデ…。スターホースがたくさんいた時代。
そういえば、当時付き合ってた彼女がヒシアマゾンが大好きで。
エリザベス女王杯を見に京都競馬場まで行きました。降着になっちゃったんですけどね…(笑)。ですからギャンブルというより、スポーツ的って言うんですかね。ぬいぐるみ買ったりして。そういう楽しみ方が好きでした。」

馬主になりたい。そんな夢を抱いて競馬にロマンを追っていた頃、それまで順風満帆だった生活が一変する。

「私が今の会社に入った97年から、実は競馬を一切辞めたんです。というのも、先代が不動産業出身なものですから、墓石業をやりながら不動産投資もやっていたんです。ところがバブルが弾けて、多額の債務を作ってしまって。私が入社した時には“余命半年の会社”と言われるくらいに不安定な状態で。競馬どころか、生活がどうなるかってレベルになってたんですよ。今まで苦労の無い生活をさせてもらってたんですけど、まさにどん底を味わうというか、生きていくのがやっとという生活を2年ぐらい送ったんです。馬主になるには経済実績が無ければいけないというのを知っていたので、もうその時点で馬主の夢はほぼ断念しましたね…。また土日がメインの仕事ということもあって、競馬どころじゃなく、がむしゃらに働いてましたね。しばらくして、大学時代の友人が札幌で居酒屋の店長をやってまして。久し振りに札幌競馬場に誘われたんですよ。開催は函館でやってたんですが、そう、エリモハリアーが勝って、エアシェイディが2着の函館記念の日。久し振りにレース見て、馬券買って、1日中競馬やって、『やっぱり競馬はいいなぁ』って(笑)。でもその時も馬主をやろうとか、(共有クラブで)一口出資しようとかは考えなかったですね。ただ、近い将来じゃなくていい、50歳ぐらいになって馬主やれたらなぁと。」

嫌いになって絶った競馬ではなかったので、再び情熱の炎が燃え上がるのにそう時間は掛らなかったようだ。

「そうしたら今度は私たちの業界で馬好きが集まって競馬サークルを作ろうと。その会長さんが社台サラブレッドクラブの一口をやっていて、『荻野くん、楽しいぞ』と(笑)。それで社台さんの会員になって、そこからはトントン拍子でしたね。」

まずは06年に地方の馬主資格を取得。

「たまたま08年の秋に残口のある募集馬が社台さんに何頭かいたんですよ。その中からクイーンガバナンス(中央・40分の1)と、船橋に入るカザリムスビ(地方オーナーズ・20分の1)を選びまして。その後、馬サークルの会長さんがJRAの馬主資格を申請したと聞いて、私も会社の状況が好転していたものですから、ちょっとチャレンジしてみようかなと。」

そして09年11月に待望のJRAの馬主資格を取る。37歳の若き馬主の誕生だ。

「う~ん、勢い…ですかね(笑)。というか、周りのみなさんの後押しがなければ取れなかったと思います。」

そして10年のJRAブリーズアップセールに参加し、ディープインパクト産駒を落札することになる。

「いや、正直言っちゃうと、元々見てなかった馬なんですよ(笑)。ハナから私なんかに買える馬だと思ってませんでしたから。だってJRAがセレクトセールで1500万ちょっとで落とした馬でしょ。2000万、3000万は突破すると思ってましたから。予算を500~700万で考えてたので、まず自分には縁のない馬だと思ってて。日高に行った時も走ってる姿は見てたんですけど、こういう馬を買う人は大馬主さんか、実績のある人で、私なんかとはレベルが違うんだろうなと。これがディープ産駒かぁという、憧れの目で見てましたね」。

それがなぜ?

「セリ自体が全体的にいい値段で、今年はもうダメかなと諦めかけていた時にあの馬が21番目で回ってきて。ところがなかなか声が掛らない。お代も意外に低いところから始まったのに手が挙がらない。おや?と思ってたら、私の後ろから1200万の声が掛かって。あぁ買う人がいるんだなぁと思って見物を決め込んでいたんです。そしたら私とセリに同行した人が『行ったら』と。確かに血統的にもマイネルアラバンサの妹ですし、若干身体の緩いところもあったのですが、せっかくだから練習で挙げてみるかと(笑)。で、1、2度セリ上げて、これでもう辞めようと最後の一声を挙げたら落ちちゃった(笑)。もう信じられなくて…。」

その直後に荻野さんは取材陣に囲まれることに。

「自分なんかが新聞や雑誌に取り上げて頂けるなんて、改めてディープインパクトという馬の偉大さを思い知らされました。」

前述のように、荻野さんはディープインパクトのレースをほとんど見ていない。

「そうなんです。ディープインパクトのレースは最後の2つ、ジャパンカップと有馬記念しか見ていないんです。ちょうど会社が不安定な状態で、懸命に頑張って働いていた時と重なってるんです。競馬を完全に遮断していた期間でしたからね。だから後からDVDでその足跡を追いかけた感じです。知れば知るほどすごい馬だなと。その子供を所有できたんですからね。感謝の気持ちでいっぱいです。」

これからも所有馬を増やしていく?

「いや、まずはオギノシュタインと名付けたんですが、この馬に勉強させてもらおうと思ってます。先日もいきなり調教師から連絡が来て、馬が便秘になって腹痛を起こしたと。私もいくらかかっても構わないので最善を尽くして下さいと伝えましたが、こういうイレギュラーな出費がどのくらい掛かるのかとかね。お金だけじゃないんですョ。中央で1頭持ちの馬主になるとはどういうことなのか、その“流れ”を勉強したいんです。もちろんやっていけないような経済的事情にならない限りは、馬主を辞めるつもりはありません。特に中央と南関東の1頭持ちは永遠に続けていきたいと思ってます。」

さらに荻野さんは“馬は自分の家族”と話す。

「私、今彼女がいないんですけど(笑)、オギノシュタインは牝馬でしょ。あのコの近況を聞くだけでヤル気が出るというか、恋人というか家族と一緒ですね。ホント生きる糧になってますから。仮に結果を出せなくても、可愛くて仕方ないですから。ひとつ勝つのが大変なのは一口馬主で経験させてもらってますんで。クイーンガバナンスが札幌でデビューする時も、3日前から札幌に入って、レース直前は緊張で何度もトイレに行った記憶があります(笑)。デビューするのが大変。ひとつ勝つのはもっと大変なんだなぁと…。だから共有クラブで一口持たれるというのもすごくいいと思いますョ。競馬が好きでも、他にも趣味をお持ちで熱心にやってらっしゃる方は別にして、休みの日にやることがないなんて方には特にお勧めしたいです。」

馬主を始めたことで、荻野さんの周りにこんな変化も起こったという。

「社員の中にやはり競馬好きがいて、その彼が『うちの社長がディープの子を持ったんだって、みんなに自慢してるんです!』と。実を言うと、『そんなことやってんなら給料もっと良くしろよ』とか、『そんな余力があるなら会社の運営に回せよ』とか言われるんじゃないかって思ってたんですね(笑)。そしたら意外や『頑張れ!』の声が多くて。今度、子会社の名義で社台さんの40分の1を持ったので、私の馬だけじゃなくて、勝った時の口取りは競馬好きの社員の皆さんに順番に行ってもらいたいと。またそれを楽しみにしてくれてるんですョ。社の中にまた別の繋がりで絆が深くなったって言うんでしょうか。馬ってやっぱり人を繋ぐんだなと。
今は競馬をやれること、馬主になれたことに、心から感謝してますね。」

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