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第10回 セダン(FR)

2025.10.20

 東京オリンピックが行われた1964年(昭和39年)は、日本中央競馬会が創立10周年を迎えた年でもあった。この年、オリンピック期間中は東京競馬場の開催を避けるなどスケジュールの変更を余儀なくされたものの、年間を通した総売上げは前年比22.2%増となる654億174万9,600円。前年4月から導入された8枠連複制馬券も少しずつファンの間に浸透し、10周年という節目を迎えて新しい一歩が軌道に乗りつつあると記録された年でもあった。


 一方、生産界に目を転ずれば、この年の軽種馬生産総数は4,010頭。初めて4,000頭を超え、種付繁殖牝馬総数もサラブレッド系が3,515頭で、アラブ系が3,032頭といずれも右肩上がりの傾向を示した。


 日本中央競馬会によって、当時のレコード価格となる7万3,500ポンド(当時の邦貨で約7,730万円)で輸入されたのが、今回紹介する1955年(昭和30年)生まれの鹿毛馬セダン(FR)。イタリアダービー馬として、初めて日本の地を踏んだ馬だ。


 父プリンスビオPrince Bio(FR)の現役時代は仏2000ギニーなど11戦6勝。種牡馬としては1951年には仏チャンピオンサイアーになったほか、シカンブルSicambre(FR)を通して世界中にその血を広め、日本でもアサデンコウ(1967年日本ダービー)、タニノムーティエ(1970年最優秀3歳牡馬)、カブラヤオー(1975年 JRA賞年度代表馬)、クシロキング(1986年天皇賞・春)など多くの活躍馬の祖となっている。


 母は伊オークス馬のスタファStaffa(ITY)。本馬の全弟シオン(FR)は伊ダービー3着。Staffaから広がりファミリーにはストラトフォードStratford(ITY)(ミラノ大賞典)がいて、さかのぼれば1966年のイタリア大賞に勝ったセロヴSerov(ITY)や1959年の JRA年度代表馬ウイルデイールや本邦輸入種牡馬ブリッカバック(USA)、1926年の愛国2冠牝馬レスプレンデントResplendent(GB)などと同じファミリーだ。


 イタリアで競走生活を送ったセダンは2歳でデビューし、4歳までの3シーズンで通算成績は20戦13勝。3歳シーズンは本邦輸入種牡馬ティエポロ(ITY)をイタリアダービー、ミラノ大賞典、イタリア大賞で2着に下し、4歳シーズンもジョッキークラブ大賞典、共和国大統領賞といった大レースに勝利するなど活躍し、6歳シーズンからイタリアで種牡馬入り。その産駒はオーヴァーOver(ITY)(伊2000ギニー)やヴァネシアVanesia(FR)(伊1000ギニー3着)など期待に違わぬ活躍を収め、日本輸入後の1968年にはイタリアでチャンピオンサイアーとなっている。


 日本軽種馬協会が日本中央競馬会からセダンの寄贈を受けたのは1964年12月。翌1965年(昭和40年)から千葉県の三里塚種馬場で種牡馬生活をスタートさせると、その初年度産駒からハクエイホウ(日本短波賞、クモハタ記念、ダービー3着)やマツセダン(アルゼンチンジョッキーCCなど重賞3勝)を輩出。その後、67年には青森県の七戸種馬場に場所を変え、70年からは静内種馬場に移動。74年から亡くなる78年までの5年間を胆振種馬場で過ごしている。その間、4世代目産駒からは〝走る精密機械〟と言われたトーヨーアサヒ(ステイヤーズS、ダイヤモンドSなど重賞5勝)を送り出し、6世代目産駒コーネルランサーが日本ダービーをレコード勝ち、同期のアイフルも天皇賞・秋で豪快な追い込みを決め、10世代目産駒スリージャイアンツが泥田のような馬場で行われた天皇賞・秋でメジロファントムとの死闘を制し、タケデンはハンデキャップ競走時代の安田記念に勝つなどコンスタントに勝ち馬を送り続けた。特筆すべきは1969年から11年連続で JRA重賞勝ち馬を送ると同時に、渡り歩いた4か所すべてで中央競馬の重賞勝ち馬を送りだしたことか。現在よりも年間の生産頭数が少なく、重賞競走の数が少なかった時代のことだ。有形無形で全国会員にもたらした影響は大きい。また「母の父」としてもダービー馬サクラチヨノオー、最優秀2歳牡馬サクラホクトオーはじめ、トライアル3冠を制してダービー2着、菊花賞2着サンエイソロンや中山記念連覇カネミカサなど多くの活躍馬を送った。その産駒はスピード、スタミナ、そして勝負根性に優れ、3世代目産駒のフジプリンスが東京ダービー、羽田盃、東京大賞典に勝利したようにダートコースも苦にしなかった。残念ながらチャンピオンサイアーとしてその名を残すことは出来なかったが、その種牡馬成績は日本競馬史の中で永遠に輝くものとして評価されている。

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