JBBAスタリオンズ名鑑 ~歴史を紡いだ種牡馬たち~
第6回 ゲイタイム(GB)
1953年(昭和28年)に農林省競馬部によって日本の地を踏んだゲイタイム(GB)は、前回紹介したライジングフレーム(IRE)から遅れること1年。種牡馬生活9年目を迎えようという1962年に日本軽種馬協会が国から借り入れ、完成したばかりの同協会三里塚種馬場で JBBAスタリオンズとしての生活をスタートさせた。1949年生のゲイタイム、13歳春の出来事だった。
当時、すでにゲイタイムは産駒の活躍によって名種牡馬としての地位を確立させていた。同じ時代にライジングフレームやヒンドスタン(GB)がいたためにチャンピオンサイアーとしてその名を遺すことはできなかったが、1957年に初年度産駒がデビューするやタジマ(東京牝馬特別、桜花賞4着)、エータイム(朝日チャレンジC)、ホマレリュウ(宝塚杯)などの活躍馬を出して注目を集め、2世代目産駒のカネチカラ、メイタイが1959年の日本ダービーで2、3着。4世代目産駒のメジロオーも日本ダービー2着。トレードされた1962年には5世代目産駒のボールドプライドが大井盃に勝ち、フェアーウィンが日本ダービー制覇。さらに6世代目産駒メイズイが圧倒的なスピードを武器に皐月賞、日本ダービーの2冠を逃げ切り勝ちするなど、とくに中距離のスピード争いでは圧倒的な存在感を示していた。日本軽種馬協会借り受け後もタイヨウ(宝塚記念、天皇賞(春)2着)、ハクセンショウ(金鯱賞、福島記念、新潟記念)、クリアヤメ(カブトヤマ記念)、ダイホウゲツ(中京記念)などの活躍馬を多く残して期待に応え、今もなおカレンチャンやジョーカプチーノ、ニシケンモノノフ、ウメノファイバーやコスモバルク、ミスターシービーなどといった馬たちの血統表の中に、その名を見つけることもできる。
その父ロックフェラRockefella(GB)はハイペリオンHyperion(GB)×英国2冠牝馬ロックフェルRockfel(GB)という良血馬。咽頭部に疾患を抱えていたため英国では好まれなかったようだが、日本ではゲイタイムの成功と、この馬の後を追うように1960年に輸入され、1973年にチャンピオンサイアーとなったチャイナロック(GB)、あるいは持ち込み馬ギャロップの活躍により1969年に輸入されたバウンティアス(GB)などによって、タフで健康で力強いスピード能力を日本の生産界に伝えてきた。
その母系は日本にもなじみ深く、祖母ヴェンチャーサムVenturesome(GB)の半兄には昭和初期の名種牡馬シアンモア(GB)がいて、曾祖母オーラスOrlass(GB)は1970年代に3度チャンピオンサイアーとなったネヴァービート(GB)の5代母でもある。
そんな血統背景を持つゲイタイムの通算成績は2~4歳時に19戦して6勝、2着5回、3着2回。結果から言えば、スピード豊かな中、長距離馬だったようだ。
2歳5月にデビューして、2歳時は芝短距離戦で7戦3勝。2000ギニーは当時16歳のL・ピゴット騎手を背に持ち味を生かしきることができなかったが、ダービーは32番枠、レース前の落鉄、バリヤー式スタートの出遅れ、そしてゴール前の不利などが響いて惜敗の2着。続くキングジョージⅥ&クインエリザベスSもダービー馬タルヤーTulyar(IRE)に一歩及ばす2着と涙を飲んだ。このレースののち前オーナーの逝去に伴いエリザベス女王の所有馬となり、ゴードンS、マーチSに勝利したものの晩年は喘鳴症に悩まされるようになり、思うような成績を残せずに引退。日本で種牡馬となった。
競馬の「たら」「れば」はないのだが、もし仮にゲイタイムがダービーを勝っていたら、そして晩年に喘鳴症を発症していなかったら日本の地を踏むことはなかったかもしれないし、そうであれば同じRockefella(GB)を父に持つチャイナロックの導入もなく、ハイセイコーやタケシバオーは生まれてこなかったかもしれず、日本の競馬が、今と全く違うものになっていた可能性も否定できない。
そういう意味でもゲイタイムが果たした役割は大きいのである。