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第5回 ライジングフレーム(IRE)

2025.05.19

 前回紹介したティエポロ(ITY)と時を同じくして、1961(昭和36)年、14歳時に JBBAスタリオンズの仲間入りを果たしたのが8歳年長のライジングフレーム(IRE)だ。


 1947(昭和22)年に生まれたこの黒鹿毛馬はティエポロに先駆けること約8年。戦後の経済制裁が解除された1952(昭和27)年に農林省競馬部によって輸入され、翌1953(昭和28)年から1960(昭和35)年までの8シーズンを国有種牡馬として過ごしていたが、新しい財源を求めていた日本軽種馬協会が所有する国(農林水産省)に対してライジングフレームを含む国有種牡馬の借受を申請し、これが承認され、1961(昭和36)年から日本軽種馬協会苫小牧種馬場に移動して新生活に入っている。日本軽種馬協会の前身にあたる軽種馬生産農協時代にはGHQによる種畜牧場の整理に伴い、多くの国有種牡馬を借り受けてきたが、1955(昭和30)年に日本軽種馬協会が設立されてから、供用途中での貸与はこの馬が初めてのケースとなる。


 「国有種牡馬」とは文字通りに国(馬政局)が所有する種牡馬のことで、日清、日露戦争において日本馬が著しく劣っていることを痛感した当時の馬政局によって1916(大正5)年に発令された制度。1916年といえば畜産組合の主催による競馬は行われていたが、馬券の発売が禁止されていた時代。馬券の発売を伴わない競馬の開催と、急務とされる馬匹の改良という2つを同時に満たすためにサラブレッドやアラブ、トロッターやペルシュロン、クライスデール種などを外国から導入して「乗馬産地」「軽輓馬産地」「重輓馬産地」「小格輓馬産地」に対して国有種牡馬を配置し、内国産馬の資質向上に役立てようというもの。戦後、その性格は大きく変わったが、現在でもその名残はしっかりと残されている。


 ライジングフレームの父ザフェニックスThe Phoenix(GB)は当時、人気を博していたサイリーン系の愛国2冠馬で、ネアルコNearco(ITY)直仔の母は愛オークス優勝馬のアドミラブルAdmirable(IRE)という血統だ。のちに世界中にその血を広げるネアルコの血を導入出来たことは大きい。一般的に「スプリンター」と称されることが多いライジングフレームだが、ダービー馬とオークス馬の配合で、自身もマイル戦で4勝を挙げているほか英国の2000ギニー5着、ダービーともに5着というからスプリンターというよりも「マイラー」と表現すべきだろう。ちなみに、ライジングフレームが5着と敗れた英国ダービーを勝ったのは、前々回に紹介したガルカドール(FR)だ。


 そんなライジングフレームは、戦中、戦後を通して滞留していた日本の血統を一掃する、まさに日本の生産界に突如として現れた黒船的存在だった。


 初年度産駒から2歳戦で2つの重賞競走含み8戦8勝で最優秀2歳牡馬に選ばれたライジングウイナーやアラブの怪物と言われたセイユウを送り出し、2世代目産駒から最優秀スプリンターとなったヒシマサルや天皇賞・秋に勝ったオーテモンを、そして3世代目産駒からは朝日杯3歳Sに勝ったウネビヒカリと、阪神3歳ステークス(現在の阪神ジュベナイルフィリーズの前身)勝ち馬インターナショナルの父となるなど産駒は革命的活躍をし、初年度産駒が3歳時の1957(昭和32)年にはサイアーズランキング2位に躍進し、翌1958(昭和33)年には6年連続チャンピオンサイアーを続けていたクモハタに代わってリーディンサイアーの座を奪い取り、連続3年リーディンサイアーに輝いている。この馬が種牡馬として記録した1,379勝は、1995年11月5日にノーザンテースト(CAN)によって抜かれるまで長く国内最多勝記録として輝き続けることになる。  


 しかし、種牡馬としての絶頂期を迎えていたこの時代は、その一方で民間シンジケートがヒンドスタン(GB)、日高軽種馬農協がソロナウェー(IRE)、さらに国営種牡馬ゲイタイム(GB)といった次代を担う新種牡馬が次々と導入されるようになり、また年齢的なことから徐々に種付頭数が減少。それでも快足メジロフレームやオークス2着ベストルーラー、桜花賞3着フレームクインなどは日本軽種馬協会の所有種馬場から送り出している。

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