JBBAスタリオンズ名鑑 ~歴史を紡いだ種牡馬たち~
第12回 バルビエリ(GB)
今回紹介するバルビエリ(GB)は、前回紹介したアークティックヴェイル(IRE)とともに日本軽種馬協会が初めて独自予算で購入した馬。来日は僚馬よりもひと足早い1965年(昭和40年)11月と記録されている。
当時はヒンドスタン(GB)全盛時代とはいえ、この不世出の名種牡馬も当時すでに19歳。生産界はその数年前からヒンドスタンに代わるサイアーラインを求めていた時代だった。
63年にはのちにリーディングサイアーとなるパーソロン(IRE)とネヴァービート(GB)が輸入され、64年にはファリスPharis(FR)直仔の仏ダービー馬フィリュース(FR)とパーシャンガルフPersian Gulf(GB)直仔の愛ダービー馬ザラズーストラ(GB)が、そして65年にはネアルコNearco(ITY)直仔のスピード馬インファチュエイション(GB)と欧州のスプリントレースで活躍していたラティフィケイション(GB)が日本の地を踏んでおり、種牡馬としての成否はともかく当時の生産界がスピードを追い求めていたことがわかる。結果から言えば66年(昭和41年)にヒンドスタン(GB)からリーディングサイアーの座を奪ったのは58年(昭和33年)に輸入されたフェアウェーFairway(GB)系のソロナウェー(IRE)だった。愛2000ギニーに勝ったスピードは、当時日本の生産界にあふれかえっていたスタミナ血脈と優れた和合性を示し、2頭のダービー馬(65年キーストン、66年テイトオー)と2頭のオークス馬、1頭の桜花賞馬含めて多くの活躍馬を送りだし、68年には同じフェアウェー直仔のハロウェー(GB)産駒タニノハローモアがダービーを5馬身差で逃げ切ってスピード時代到来を強く印象付けた。
そんな時代に逆行するように2頭のセントレジャー勝ちを選んだのは「いたずらに流行を追いかけるのではなく、長期的な視点に立ち国内生産馬の血統が偏り過ぎないよう生産界をリードする」という日本軽種馬協会の宿命だったのかもしれない。
閑話休題。
バルビエリは生粋のステイヤーだ。2~4歳時にフランスで走って通算9戦3勝。仏国の名伯楽ジョフロワ・ワトソン調教師のもと、1964年に仏セントレジャーと表される事が多いロワイヤルオーク賞(ロンシャン競馬場芝3100㍍)に優勝。ほかアジャックス賞(サンクルー競馬場芝2000㍍)ノワンテル賞(サンクルー競馬場2100㍍)に勝ち、リュバン賞(ロンシャン競馬場芝2100㍍)は仏ダービー馬ルファビュリューLe Fabuleux(FR)の2着で、仏ダービーは5着。4歳シーズンはシャンプラ賞(ロンシャン競馬場芝3200㍍)に出走して前年のパリ大賞優勝馬ホワイトレーベルWhite Label(FR)の3着という成績を残している。
父ラヴァレンドLa Varende(FR)は仏国で2~4歳時に11戦2勝。ジャンプラ賞(ロンシャン競馬場・芝2000㍍)優勝馬。シェーヌ賞2着、ギシュ賞2着、仏グランクリテリヨム3着、オカール賞4着。1954年から種牡馬となって、今もレース名にその名を残す名牝アスタリアAstaria(FR)や本邦輸入種牡馬ニルコス(FR)(仏ダービー2着、ロワイヤルオーク賞3着)などを送りだしている。ちなみに、バルビエリの6代父フロリゼルFlorizel(GB)は1907年に小岩井農場が基礎牝馬として導入したフロリースカツプ(GB)の父でもあり、5代父ドリクレスDoricles(GB)は1901年の英セントレジャー優勝馬。現役引退後はフランスへ輸出され、直父孫世代に1924年の凱旋門賞優勝馬で、32年に仏リーディングサイアーとなったマシーヌMassine(FR)を送りだしている。
一方の母系はファミリーナンバー1号族のtライン。英ダービー馬ドクターデヴィアス(IRE)や英国2冠馬カメロニアンCameronian(GB)、1957年の仏オークス馬セリソールCerisoles(FR)などを送ったファミリーで、日本ではステイゴールドがここに属する。
バルビエリ(GB)の母ノリカNaurica(FR)には1歳違いの半妹に1958年のジャックルマロワ賞に勝ったクードキャノンCoup de Canon(FR)がいて、バルビエリの半妹ヤピュラYapura(FR)の孫に1988、89年のジャンドショードネイ賞(仏G2、芝2400㍍)を連覇し、トニービン(IRE)が勝利した1988年凱旋門賞3着ボヤティノBoyatino(FR)がいる。
日本到着後、1966(昭和41)年に日本軽種馬協会那須種牡馬で第9回目に紹介したワラビー(FR)とともに種牡馬生活をスタートさせ、翌67年は静内種馬場、68年は苫小牧種馬場、そして69年は同じラヴァレンドを父に持ち供用2年目のニルコス(FR)が種牡馬生活を送る鹿児島県の九州種馬場へと移動。そこで5年間供用されたのち再び北海道へ戻って胆振種馬場で3年間を過ごしたあと、岩手県一関市の西磐井畜産農協種付所へと移動。昭和53年12月に青森県内の鳥谷部牧場に払い下げられ、翌54年12月にその生涯を閉じた。
2世代目産駒のバルビフオンテンは京成杯2着、東京4歳S(現在の共同通信杯)3着、ダービートライアルのNHK杯3着とクラシック戦線で活躍。また九州地区で供用された際に生まれたキンコーハヤテが佐賀の花吹雪賞に勝ったほか、バルホープが九州ダービー栄城賞2着と活躍し、1986年のマイルチャンピオンシップにも出走したビギナーズラックの祖母の父にもなったが、残念ながら令和時代の競走馬にその名を見つけることは出来なかった。
