JBIS-サーチ

国内最大級の競馬情報データベース

第8回 シプリアニ(ITY)

2025.08.19

 1954年(昭和29年)秋に発足された日本中央競馬会は日本の経済成長と足並みを揃えるように勝馬投票券の売上げを伸ばし、それは1960年代に入ると急激な右肩カーブを描くようになる。1960年(昭和35年)に290億円だった総売得金が翌1961年には370億円となる。


 当然、この事は国会でも問題となり1961年7月には長沼弘毅氏を公営競技調査会会長とする「公営競技に関する現行制度と今後の基本的方策についての答申の件」(通称:長沼答申)を発表するも、1962年(480億円)、1963年(530億円)、1964年(650億円)、1965年(860億円)となり、1966年はついに1,000億円の壁を突破し1,200億円を記録している。


 そんな急成長を遂げていた1962年12月、日本中央競馬会により32,500ポンド(当時の邦貨で約3,300万円)で輸入されたのが1958年生まれのシプリアニ(ITY)だ。


 父ネヴァーセイダイNever Say Die(USA)は、英国ダービーと同セントレジャーに勝った名馬で、1962年の英国チャンピオンサイアー。日本でもチャンピオンサイアーとなったネヴァービート(GB)はじめ本馬やダイハード(GB)、コントライト(USA)など数多くの直仔が種牡馬として輸入され、多くが成功している。その中にあってシプリアニは同じ年に日高軽種馬農業協同組合によって輸入されたダイハードとともに、初めて日本の地を踏んだネヴァーセイダイ直仔の輸入種牡馬として多くの活躍馬を送り、生産界に大きな影響を与えた。


 母は1956年のプリンセスロイヤルS(現在のブリティッシュ・チャンピオンズ・フィリーズ&メアズステークス)優勝馬カレッザCarezza(GB)(その父ロックフェラRockefella(GB))という血統。イタリア産として登録されているのは6戦4勝3着2回(重賞2勝)で現役を終えた母カレッザをリボーRibot(GB)と配合させるためにイタリアへ渡らせた時に生まれたからだと言う。その現役時代は愛、英国で競走生活を送り、通算17戦4勝2着2回。2歳秋にデビューし、初勝利まで時間はかかったものの3歳春に初勝利を記録したあとは英国ダービー5着、愛ダービー6着と距離が伸びて活躍し、4歳春のコロネーションSでは英愛2歳チャンピオンサイアーのヴィエナVienna(GB)を破って優勝し、同年のサセックスSはレコード勝ちしたロムルスRomulus(GB)の2着だった。


 そんなシプリアニは現役引退後すぐに日本に輸入されると、その初年度は日本軽種馬協会那須種馬場に配置され、2年目は千葉県の三里塚種馬場へ移動。3年目からは静内種馬場に移動して5シーズンを過ごしたのち苫小牧種馬場で1年間だけ種牡馬生活を送ると、胆振種馬場へと移動して3年目シーズンの初頭に急死。15歳という若さだった。


 産駒成績は好調で、初年度産駒から小倉3歳ステークス(レース名は当時のまま)など重賞7勝のアトラスを輩出し、2世代目産駒からは全日本3歳優駿勝馬バトラーを、そして3世代目産駒トウメイが桜花賞2着、オークス3着ののち天皇賞・秋、有馬記念に勝って年度代表馬に選ばれるなど産駒の活躍によって人気種牡馬となると、1971年の2冠馬ヒカルイマイ(最優秀3歳牡馬)、1972年の桜花賞、ビクトリアC(現在の秋華賞)優勝馬アチーブスター(最優秀3歳牝馬)ほか、1974年の東京王冠賞、東京大賞典に勝って1975年秋の天皇賞で5着と健闘したトドロキムサシや、1976年の東京大賞典に勝って種牡馬としても成功したファインポート、1970年の同2着ナンポウザンなどを送り一流種牡馬の仲間入りを果たしている。


 改めて振り返ると、本馬が輸入された1960年代前半はヒンドスタン(GB)、ライジングフレーム(IRE)全盛期。トサミドリがやや衰えを見せ始め、ゲイタイム(GB)、ハロウェー(GB)などの輸入種牡馬がスピードを武器に活躍していた時代で、本馬が輸入される前年(1961年)はアポッスル(GB)、エイトラックス(FR)、ガバドール(FR)などファラリス系の種牡馬が大挙して日本の地を踏んでいる。その中にあってナスルーラ系、とくにネヴァーセイダイ系の優秀性を示した功績は大きい。直父系は途絶えており、トウメイ、アチーブスターの血を引く馬も数えるほどになってしまったが、それでもシプリアニの血は現役種牡馬ポアゾンブラックの血統表に、その名前を見つけることが出来る。

トップへ