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第46回 『馬術と馬道』

2012.10.16
 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(増田俊也著)という本を読了した。センセーショナルなタイトルにも思えるが、大宅壮一ノンフィクション賞と、新潮ドキュメント賞をダブル受賞しているように、近年におけるスポーツノンフィクションの代表作とも言える。
 ところで、タイトルにもなっている力道山の名前は知っていても、木村政彦という名前をご存じない読者の方はかなりおられるのではないかと思う。

 木村政彦とは全日本柔道選手権大会の前身に当たる全日本選士権を3連覇し、全日本選手権を13年連続で保持。天覧試合にも優勝するなど輝かしい実績を残し、その強さは「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」とも称えられている。

 にも関わらず、その強さが一般的に知れ渡っていないのは、木村政彦がプロ柔道の選手、そしてプロレスラーともなったことで、柔道の総本山である講道館とは距離を置く存在となってしまったことが大きい。

 この「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」では、その経緯についても詳しく書かれているのだが、その中でも興味深かったのが「柔道」と「柔術」の違いと、そのあらましについてだった。

 日本古来の競技ながらオリンピックの正式種目にもなり、今では体育などでも取り入れられている柔道。一方、柔術は一昔前に格闘技ブームが起こった時、「400戦無敗」とも言われたヒクソン・グレイシーがグレイシー柔術と言われる柔術を戦いのベースに用いたことで、一気に知名度を高めることとなった。

 元々日本には様々な柔術の流派があり、その柔術を理論化して「柔道」としたのが、講道館を設立した嘉納治五郎。現在の柔道はそこにスポーツとしての要素を取り込み、競技化することで、日本だけでなく、世界にも広く普及することとなった。

 その柔道の発展と対極するように、江戸時代から様々な流派があった柔術は勢いを無くしていく。

 しかし、実戦を想定した技術は世界で発展を続けていき、ブラジルに渡った前田光世が指導を行ったのが、ヒクソン・グレイシーの伯父となるカーロス・グレイシー。グレイシー一族と柔術の接点はここから始まっている。

 それから数十年後、柔術の技術を更に進化させたブラジリアン柔術となっていたエリオ・グレイシーを破ったのが、木村政彦。その時の決め技「腕緘」を、グレイシー一族は敬意を込めて「キムラ・ロック」とも呼び、ホイス・グレイシーが「何でもあり」の格闘技大会と言われた「UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)で優勝した際、日本では無かった存在となっていた木村政彦の名前をあげ、「特別な存在」とその強さを世界にアピールした。

 とここまで木村政彦と柔道、そして柔術について、長々と書かせてもらったのだが、肝心の力道山との戦いについては触れていないし、そもそもが原稿用紙計算で1600枚、上下に文章が書かれた2段組の700ページ以上もある本。いくら自由にこのコラムを書かせてもらっているとはいえ、この調子で文字を埋めていったら、コラムのタイトルも「馬産地ファイターズ」から、「格闘技ファイターズ」に変更せざるを得ない。

 今回の「馬産地ファイターズ」をこんな書き出しで始めた理由。それは「柔道」と「柔術」という言葉と歴史の経緯を振り返った時、「馬道」と「馬術」という言葉とどこかリンクしたからである。

 いや、正確には「馬道」という言葉こそあれど、その意味は「柔道」的なあらましとは、ほんの一ミリたりとも重なってはいない。むしろ「馬道」という言葉の意味は、地名や駅名ともなっているように、元来は「馬や馬車が歩いていた道」のことでもあるようだ。

 それを無理矢理、「柔道」と「馬道」を同義語としたのには、こんなきっかけがある。先日、取材に出かけてきた「第3回サンクスホースデイズ」において、イベントに参加された馬術競技選手の広田龍馬さんが、「馬道」という言葉を用いて、競馬や乗馬だけでなく、人と馬との関わりまでを包括的に表現したからである。
(次号に続く。一部敬称略)
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