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第41回『見えない敵と戦う』

2012.05.11
 4月7日、福島競馬が1年5ヵ月振りに再開した。レース当日は春競馬の初日としては、最近10年で最多となる1万3,193名ものファンで、場内は賑わったという。
 福島競馬場は、2011年3月11日の東日本大震災により、スタンドの一部損壊などの被害に見舞われたが、昨年の夏まで厩舎地区に最大で550名もの避難住民を受け入れるなど、自ら被災しながらも、地域の中での役割を果たしてきた。

 しかし、地震と津波による福島第1原子力発電所の事故により飛散した放射性物質により、競馬場敷地内は1時間あたり約3マイクロシーベルトと比較的高い値の汚染も被っていた。

 昨年9月以降、本格的にスタンド等競馬場施設の修繕と、芝コースの張替え、ダートコースの砂の入れ替え、高圧洗浄による場内の除染作業に約42億円をつぎ込み、今年3月26日の報道関係者への公開日には、地上1メートルの空中放射線量はスタンド内で0.08マイクロシーベルト、芝コースでは0.43マイクロシーベルトまで下げることができ、無事再開への運びとなった。

 福島競馬場へは、昨年6月25日から再開していた馬場内投票所での場外発売に、夏に行って以来、残念ながら再開幕日以降も赴くことはできないでいるが、手元の資料を見ると、自分が行った時季の直前には、内馬場の芝生で最大3.1マイクロシーベルトの地点があったようだ。

 競馬が行われなかった影響は福島市内、そして周辺部にまで及ぶ。2010年時点で入場約28万人、競馬場の売り上げ約69億円の産業ひとつが消えた。JRAから市に支払われる「競馬場周辺環境整備費寄付金」が約1億5,000万円減、従事員や警備員の雇用、売店、駐車場、周辺の飲食店、タクシー等。

 そして、福島競馬場正面に支社を置く我が日刊競馬も...。詳しい数字を書くと悲しくなるから、書かないでおく。何せ道路は寸断、電車も暫く動かず、沿岸部は津波の被害、原発事故でそもそも立ち入りが出来ない場所がある。物流は完全に停止、配達のパートさんやアルバイトは一旦整理、支社の社員は県外退避、お客さんは被災。一時は大ダメージどころか、壊滅状態だった。それを思えば、競馬が再開されたことは待ち焦がれたどころか、夢のような出来事に思える。

 もちろん、福島競馬を再開することへの批判や非難、恐れがあることは承知している。「できれば行きたくない」と思っている騎手や厩務員がいることも耳にする。確かに、競馬場の場内が除染されたといっても、競馬場からそれほど遠くない福島市役所で1.05マイクロシーベルトの空中放射線量がある。

 また、車で福島県内を走っていると、「見えないはずの放射線が見える場所」が、所々現れる。いわゆる「ホットスポット」というやつだ。福島支社の社員に聞けば「あそことか、あそことか」。次々と出てくる。競馬場も含め、ほとんどの施設に「現在の空中放射線量は○○マイクロシーベルトです」という掲示板が設置されている。駅と競馬場を往復しただけではわからない、「原発事故の爪痕」がまだ至るところに残っている。

 この1年間、競馬サークルからは、昨年6月末時点までに約43億円、以降も馬券の売り上げなどから岩手、宮城、福島の3県や、南部杯の売り上げから岩手県競馬組合等に義援金の拠出、寄付を行っている。また、競馬ファンからの募金も、この3月で約1億1,000万円を超えたという。各地方競馬のサークルからも多額の義援金が集まった。バラバラに公表しているので、サークル全体で一体幾らなのか定かではないが、この1年、競馬の役割は果たせたのではないかと思う。

 もうひとつ。相馬郡飯舘村にある南関東の場外「ニュートラックいいたて」は未だ再開できずにいる。そもそも、村全体が「計画的避難区域」に指定され、村民の9割以上が現在も避難生活を送っている。施設会社に問い合わせるまでもなく、再開時期は未定。人口6,000人の村で元々利用者は100名前後の小規模場外ではあるが、再び村の人々が戻ってこられることを願っている。

 しかし、この「見えない敵」との戦いはいつまで続くのだろうか。1年経った今でも、先は全く見えてこない。
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