JBBAスタリオンズ名鑑 ~歴史を紡いだ種牡馬たち~
第1回 オーブリオン(FR)
この度、縁あって日本軽種馬協会が海外から導入した種牡馬の歴史をたどる機会をいただきました。この場を借りて関係者の皆様方に感謝申し上げます。
全国軽種馬生産者団体の長である日本軽種馬協会は、その前身である「社団法人サラブレッド協会」「軽種馬生産農業協同組合」の時代から、国内競走馬の資源確保、改良増殖、そして健全な競馬の発展を目的に、時代の流行に左右されることなく優秀な血脈を国内外から導入し続けています。中でも、海外から輸入された同協会のスタリオンラインナップは、日本産馬のいわば基礎。語り継がれる名馬たちの血統表の中で、今現在も絶えることなく、存在感を示しています。この連載では、そうした歴史を時代背景とともに振り返っていきたいと思います。
日本中央競馬会発足から遅れること1年。1955年(昭和30年)に設立された日本軽種馬協会(廣澤春彦会長理事)の種牡馬事業は「軽種馬生産農業協同組合」が所有していた内国産サラブレッド系種牡馬11頭、アラ系含むアラブ系種牡馬14頭を引き継ぐ形で、事業をスタートさせている。その最大の特長は全国組織の強みを生かし、所有種牡馬を全国に散りばめられた協会直営種馬場に配置換えを頻繁に行うということ。当時の交通事情は現代とは比べ物にならないほど劣悪だったため、種牡馬が優秀であればあるほど長く同一地区で供用されれば地域間格差が広がり、また当該地域内において血の偏りが生じてくる。それを未然に防ぐための措置だったと想像できる。
設立から2年後の1957年(昭和32年)、内国産サラブレッドのラショウモン(50年生、父セフト(IRE))と、アングロアラブのタカラオー(52年生、父崇優)を購買し東北地区に配置。また、その翌58年には農林省、日本中央競馬会に強く働きかけて、同協会としては初めて海外からの種牡馬導入(供用は59年から)に結びつけている。1958年といえば56年に初年度産駒をデビューさせたライジングフレーム(IRE)が圧倒的なスピードを武器に年間176勝をあげて初のチャンピオンサイアーとなった年でもある。その活躍は戦前、戦中の競馬を支えてきたスタミナ型からスピード型へと日本の競馬が大きく舵を切ったエポックメーキングでもあった。
そんな時代に日本中央競馬会が6万ドルの外貨割当を受けて導入したのはオーブリオン(FR)(53年生、父Fastnet(FR))とマイナーズランプ(IRE)(55年生、父Signal Light(IRE))の2頭だった。また、この年は日本軽種馬協会日高支部がPhalaris(GB)の孫 Nearco(ITY)直仔の快足カリム(IRE)を、日高軽種馬農協がPhalarisの曾孫にあたる愛2000ギニー馬ソロナウェー(IRE)を導入し、競ってPhalarisの血を引く種牡馬を導入した年でもあった。ライジングフレームの母系にも入るPhalarisは爆発的なスピードが武器。NearcoやNative Dancer(USA)、Northern Dancer(CAN)などを通して世界の血統地図を塗り替えた名種牡馬だ。
オーブリオン、マイナーズランプの2頭は日本到着後、農林省に寄贈され、オーブリオンは青森県の奥羽種畜牧場に、マイナーズランプは千葉県の下総御料牧場で種牡馬生活をスタートさせている。
オーブリオンは名馬産家マルセル・ブーサック氏の生産馬で、2~5歳時にフランスで13戦3勝。芝2400㍍のレスプロナード賞、芝2000㍍のクレマート賞、芝2100㍍のロワエロド賞に勝ち、英国スポーツライフ誌によると、仏3歳フリーハンデは11位だったそうだ。
父Fastnetは、グレフュール賞、ノアイユ賞の優勝馬で、種牡馬として1947年の凱旋門賞優勝馬Le Paillon(FR)や50年のエクリプス賞優勝馬Flocon(FR)、あるいは54年フォンテヌブロー賞に勝って同年英国2000ギニー2着で、のちに日本に輸入され種牡馬として大成功したフェリオール(FR)などを送る名種牡馬。一方の母Honeymoon(FR)はガネー賞含む仏国7勝馬。曾祖母Piazzetta(GB)は1924年の英国ダービー馬Sansovino(GB)の半妹で、このファミリーには33年の英国2冠馬で、のちに名種牡馬となるHyperion(GB)や、1942年の英2000ギニー優勝馬Big Game(GB)、52年の英2000ギニー優勝馬Thunderhead(FR)などがいる名門ファミリーだ。
Fastnetの父Pharos(GB)の2×3という強いインブリードを持っているオーブリオンは、自身の血をつなぐような産駒には恵まれなかったが、母の父としては「雨女」と言われ安田記念や京王杯オータムハンデに勝ったラファール(68年生、父テッソ(GB))や、朝日チャレンジCなど重賞3勝をあげダービー4着、菊花賞5着のスリーヨーク(71年生、父ダイハード(GB))などを送り出した。
奥羽種畜牧場で59年から3年間種牡馬生活を送ったのち、62年に日本軽種馬協会が国から借り受け、青森県の七戸種馬場で供用開始。64年から千葉県成田市の下総御料牧場と、日本軽種馬協会三里塚種馬場で供用されたが、66年に死亡している。紙面が尽きた。マイナーズランプについては次号に。