ホソジュンのウマなりトーク
第81回 JBBA NEWS 8月号を本棚に
2016.12.16
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毎年この時期になると、「早12月ですね」の冒頭に始まり、今年1年もあっという間に過ぎ去ってしまったことを書いてきたように思うのですが、2016年の今年だけは、「やっと12月」という思い。
振り返れば去年の今頃、急に体調を悪くした父。にもかかわらず、1年で1番忙しい有馬記念の週には、体の辛さを我慢し、愛知県から車で母と共に2歳になる息子の面倒を見に駆けつけてくれました。
そして愛知へ帰宅した2日後に緊急入院となり、その後、抗がん剤治療を受けるものの、5月下旬には余命3か月の診断を受ける結果に...。
その後、入院はせず、自宅で過ごしながら通院という形をとっていたのですが、抗がん剤を止めてから急激に体調が戻り始め、「ひょっとしたら、このまま大丈夫なのでは?」と感じるまで回復。
昔から、何1つ愚痴などこぼさない父でしたので、病気になっても「体調大丈夫?」と聞けば、「大丈夫だよ」の返しのみ。その言葉をそのまま受け止め、まだまだ生きられるものだと疑わず、父の苦しみや耐える姿から目をそむけ、10月には、病気になる前のように、自分の悲しみや苦しみを父にぶつけ、心配をかけてしまいました。
そしてその1か月後、11月中旬に他界。振り返れば、出産後、すぐの仕事復帰の裏には、父のサポートがあったからであり、病気になったのも、私の仕事の犠牲になってしまった部分が多々あったのではないかと後悔していたにもかかわらず、最後の最後に免疫力を下げてしまうような心配をさせてしまいました。
今にして思うことは、私の苦しみは父にとっての苦しみ悲しみとなっていたことに気づかされます。
もっとさかのぼれば、私が騎手を目指し、競馬学校騎手過程に合格した際、怪我の心配をした母が嫌だと言って、台所の隅で涙を流すと、「純子がしたいと思って歩んできたのだから、泣くな。応援してあげよう」と母を諭し、子育てから手が離れた母が、介護福祉士・社会福祉士となり、最後の目標であったケアマネジャーの試験を諦めかけた際には、「純子の姿を見て、何も思わないのか」と、競馬学校の父兄参観の帰りに父が発した言葉によって、ケアマネジャーの資格を頑張ってとることができたと語った母。
そして騎手を引退した際には、母が、「何も言わないけど、お父さんが1番ホッとした表情をしていた」と。
高校を卒業後、離れて暮らしていたこともあり、私の状況を把握していないとばかり思っていましたが、決してそうではなく、私の心を父はいつも感じながら生きていたことに気づかされます。
そして9月に逢った時には、たまたま持ち帰っていた、この雑誌を目にしたようで、「良い文章だった」と、褒めてくれた父。
実は父自身も、「農村医療活動と農協」という本を出版しており、父の書斎だけでなく、廊下や2階の空いた部屋にもぎっしりと本が並べられ、私は子供の頃から本に囲まれた環境で育ちました。
常に優しく、政治、経済、歴史など、これまで質問したことに、答えられないことが何1つない父でしたが、よくよく考えてみると、文章に限らず、父が言葉で直接褒めてくれたのは、今回のこの事しか思いだせないところも...。
よって仏壇から真正面に置かれた本棚に、父が読み、褒めてくれた「JBBA NEWS8月号」を、入れてみようと思います。そして40を過ぎても愚かな娘であった自分を振り返り、来年からは、父を悲しませるような自分にだけはならないこと、それを常に心に留めて行動していきたいと思っています。
皆様、今年もご愛読をありがとうございました。
ホソジュンでしたぁ。
振り返れば去年の今頃、急に体調を悪くした父。にもかかわらず、1年で1番忙しい有馬記念の週には、体の辛さを我慢し、愛知県から車で母と共に2歳になる息子の面倒を見に駆けつけてくれました。
そして愛知へ帰宅した2日後に緊急入院となり、その後、抗がん剤治療を受けるものの、5月下旬には余命3か月の診断を受ける結果に...。
その後、入院はせず、自宅で過ごしながら通院という形をとっていたのですが、抗がん剤を止めてから急激に体調が戻り始め、「ひょっとしたら、このまま大丈夫なのでは?」と感じるまで回復。
昔から、何1つ愚痴などこぼさない父でしたので、病気になっても「体調大丈夫?」と聞けば、「大丈夫だよ」の返しのみ。その言葉をそのまま受け止め、まだまだ生きられるものだと疑わず、父の苦しみや耐える姿から目をそむけ、10月には、病気になる前のように、自分の悲しみや苦しみを父にぶつけ、心配をかけてしまいました。
そしてその1か月後、11月中旬に他界。振り返れば、出産後、すぐの仕事復帰の裏には、父のサポートがあったからであり、病気になったのも、私の仕事の犠牲になってしまった部分が多々あったのではないかと後悔していたにもかかわらず、最後の最後に免疫力を下げてしまうような心配をさせてしまいました。
今にして思うことは、私の苦しみは父にとっての苦しみ悲しみとなっていたことに気づかされます。
もっとさかのぼれば、私が騎手を目指し、競馬学校騎手過程に合格した際、怪我の心配をした母が嫌だと言って、台所の隅で涙を流すと、「純子がしたいと思って歩んできたのだから、泣くな。応援してあげよう」と母を諭し、子育てから手が離れた母が、介護福祉士・社会福祉士となり、最後の目標であったケアマネジャーの試験を諦めかけた際には、「純子の姿を見て、何も思わないのか」と、競馬学校の父兄参観の帰りに父が発した言葉によって、ケアマネジャーの資格を頑張ってとることができたと語った母。
そして騎手を引退した際には、母が、「何も言わないけど、お父さんが1番ホッとした表情をしていた」と。
高校を卒業後、離れて暮らしていたこともあり、私の状況を把握していないとばかり思っていましたが、決してそうではなく、私の心を父はいつも感じながら生きていたことに気づかされます。
そして9月に逢った時には、たまたま持ち帰っていた、この雑誌を目にしたようで、「良い文章だった」と、褒めてくれた父。
実は父自身も、「農村医療活動と農協」という本を出版しており、父の書斎だけでなく、廊下や2階の空いた部屋にもぎっしりと本が並べられ、私は子供の頃から本に囲まれた環境で育ちました。
常に優しく、政治、経済、歴史など、これまで質問したことに、答えられないことが何1つない父でしたが、よくよく考えてみると、文章に限らず、父が言葉で直接褒めてくれたのは、今回のこの事しか思いだせないところも...。
よって仏壇から真正面に置かれた本棚に、父が読み、褒めてくれた「JBBA NEWS8月号」を、入れてみようと思います。そして40を過ぎても愚かな娘であった自分を振り返り、来年からは、父を悲しませるような自分にだけはならないこと、それを常に心に留めて行動していきたいと思っています。
皆様、今年もご愛読をありがとうございました。
ホソジュンでしたぁ。