JBIS-サーチ

国内最大級の競馬情報データベース

第169回 『転換期』

2023.01.25
 11月28日、地方競馬全国協会(以下、地全協)の会議室に於いて「全日本的なダート競走の体系整備について」の記者会見が開かれた。
 本来であれば、その日別件で地全協本部に行く用事があったのだが、船橋競馬3日目版(クイーン賞当日版)の新聞制作メンバーが足りず、一応編集、制作の責任者ということになっているので、社業を優先して地全協行きは断念。

 まだ送られた資料と、日刊紙の報道を読んだだけの状態なので、詳しくはいずれ地全協と主催者の番組担当者に取材(密談)するつもりなので今回はスルーするが、第一印象としてはいわゆる「交流元年」以来となる「転換期」という感じがする。

 筆者が日刊競馬に入社したのが1994年、ナリタブライアンが三冠を達成した年である。その頃の地方競馬がどのような状況だったかというと、1993年に設置された「地方競馬運営改善推進委員会」が翌94年6月に答申を出し、それに基づき95年よりJRAが全GⅠ競走を指定競走にし、また地方競馬側も交流重賞を拡大した。いわゆる「交流元年」である。

 それにより笠松のライデンリーダーが報知杯4歳牝馬特別に勝ち、桜花賞へ出走(4着)。足利のハシノタイユウが弥生賞で3着となり、皐月賞に出走(9着)した。

 また地方競馬では、JRAのライブリマウントが帝王賞、ブリーダーズゴールドカップ、南部杯に勝ち、アドマイヤボサツが佐賀の開設記念で重賞初勝利を挙げ、暮れの東京大賞典でライブリマウントを破った。また、ホクトベガがエンプレス杯で2着に18馬身差を付ける衝撃の走りをみせた。

 この頃筆者は地方の編集と川口オートの新聞を手伝いながら、中央のローカル版のサブをしていた。土曜の札幌でパーフェクト(当時馬連)を達成したが自分しか気付かず、秋の福島3歳未勝利で、ひたすら想定の馬名を打ち込み、前予想で△36番目にした馬が、新聞が出来たら◎になっていて、それが当日1番人気になっていた。

 転機となったのは地方競馬担当になってからだろう。振り返ると「交流元年」の波に乗ったのが今の自分には大きかった。

 「交流元年」とは言っても、中央と地方の新聞の取材、情報のやり取りはこれまでも相互の移籍で成績などのやり取り(90年代中盤頃は、まだ今のようなデータ交換ではなく、FAXなど紙ベースでした)はしていたから問題ないかと思われたが、体制が整うまでは結構大変だった。

 交流競走となると移籍と異なり談話、追い切り取材が必要になる。さらにそれが南関東・中央間なら、両方出している新聞社があるからどうにでもなるのだが、岩手から1頭、高崎から1頭、笠松から1頭となると、各地の新聞社に取材と時計の依頼が必要になる。

 これまでも帝王賞やブリーダーズゴールドカップ、南部杯などあったが単発レベルで、レース数が一気に増えると体制を整える必要があった。主催者や地全協、主催者協議会の協力により次第に体制は整ったが、初年度の本当に最初の頃は自力で取材しに行くしかなかった。今のような各地の新聞社間の交流がほとんどなくて、まず挨拶しに行くところからスタートした記憶がある。

 何を隠そう筆者の調教取材デビューの地は笠松競馬場である。中央や南関東よりも前に、笠松で取った時計が最初に新聞に掲載された。しかも交換されて各紙に載った(載ってしまった)。それには色々と経緯があるのだが、ちょっと印刷物には残せないので割愛する(笑)。

 96年に「ダート格付け委員会」発足、97年にダート競走の格付けがなされ「ダートグレード競走」となる。相互に出走できるレースは増え続け、ホクトベガが各地を蹂躙したり、メイセイオペラがフェブラリーステークスに勝ったり。あるいはエンゼルカロ(函館3歳S)やレジェンドハンター、フジノテンビー(デイリー杯2歳S)など、主に2歳戦だが、JRAの芝で勝つ馬も現れるなど、競馬史に残るシーンを何度も観てきた。

 一方で、地方競馬の売上は徐々に下がり、2000年代初頭には競馬場の廃止が続いた。震災のあった2011年には南関東4場もついに2,000億円を割った。その窮地を救ったのは2012年10月に始まった地方競馬I-PATだろう。

 日本グレード格付け管理委員会の発足と標記の変更とか、細かいことは省略したが、振り返ると色々なことがあったなと思う。「交流元年」当時、お互いペーペーで現場に出ていた方々が、立派な肩書で記者会見に出ているのを観て「なんか俺も歳取ったなあ」みたいなものも少し感じた。
トップへ