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第69回 『脱サラ調教師』

2014.09.24
 8月13日、恒例となったお盆開催の大井競馬で行われた第48回黒潮盃。
 レースはテイクユアチョイスとノーキディングが先手を奪ったところで一気にペースを落としたため、1コーナーは大渋滞。馬群ひと塊のままレースは流れ、最初の1000メートルは63.2の超スローペースに。3~4コーナーでも16頭ほぼひと塊のまま4コーナーを回り直線へ。

 粘るテイクユアチョイスとノーキディングに、外々を回った東京ダービー2着馬スマイルピースが並びかけ、残り200メートルを切ったところで抜け出し独走し、そのまま押し切って優勝。

 2着は遅れて伸びてきたドバイエキスプレス、3着はヴァイスヴァーサで、単勝人気順1、2、3番人気での決着となった。

 勝ったスマイルピースに騎乗していた楢崎功祐騎手は南関東移籍後重賞初勝利。管理する佐野謙二調教師も開業9年目にして初の重賞勝ちとなった。翌日の日刊紙にも書かれていたが、佐野調教師はいわゆる「脱サラ調教師」である。厩舎ホームページにもある通り、厩舎育ちではなく大学卒業後ある飲料メーカーに勤めていたが、30歳を過ぎた1995年に脱サラし、大井競馬場の菅原秀雄厩舎で厩務員になる。98年のトゥインクルレディ賞に勝ったクリオネー等を担当した後、2002年に調教師補佐、2006年に調教師試験に合格し、佐野厩舎を開業した。

 いうなれば「異色の経歴」ということになるが、業界出身者も含めると、例えば中央競馬でも大久保洋吉調教師のように、厩舎育ちではあるが大学卒業後建設会社のサラリーマンを経て馬の世界に入った(戻った)人や、競馬専門紙の記者→厩務員→調教助手、そして調教師となった人。さらには、馬の世界には全く縁がなく普通に勤めていたが奥さんが調教師の娘だったからとか、馬の世界に足を踏み入れるきっかけは様々だが、それら全て勤めていた会社を辞めて来るのだから、言ってしまえば「脱サラ」である。

 地方競馬の有名どころでは、メイセイオペラの佐々木修一調教師は集団就職で上京後、競馬場で馬の世界に魅せられ、南関東で厩務員に転職しその後岩手で調教師に。南関東では佐野調教師の他に、最近だけでも川崎の武井和実調教師は自動車関係の会社勤務、船橋の伊藤滋規調教師もサラリーマンを辞めてこの世界に飛び込んだ。

 いずれの方々も馬の世界に「夢」を抱いて飛び込んだと仰っている。惜しむらくはその時独身だったか既婚だったか聞くのを忘れたが、もし既婚だったら、さらに子供がいたりしたら、それは相当の勇気と覚悟が必要だったに違いない。

 さて、一念発起して会社を辞めてから調教師試験に合格するまで、いったいどれくらいの期間が必要かというと、中央競馬の大久保洋吉調教師は5年だったが、昭和40年代の話であって、競馬学校の厩務員課程を終えなければならない今は制度上5年では不可能。入学には年齢制限もあり、1年以上の牧場での競走馬調教、育成の経験も必要だから、23~24歳までには会社を辞めなければならない。

 地方競馬の場合は、地方競馬教養センターに厩舎関係者養成課程があるものの、基本的に特別な試験などはなく、厩舎との直接雇用関係である。大井の佐野調教師で11年、最近だと2011年に船橋競馬場で開業した伊藤滋規調教師は27歳で脱サラし、牧場で3年、厩舎で10年の計13年を要している。それが長いか短いかは、筆者には何とも言えないし、わからない。

 「夢」であった競馬の世界に飛び込み、厩舎開業から9年目で重賞初勝利を成し遂げ「夢」を叶えた佐野調教師。ちょうど4年前、東京ダービーに管理馬ラストキングを出走させた。その時、佐野師と同い年の弊紙T記者に「今が踏ん張りどころです」とポツリと語ったそうだ。前段の「長いか短いか」という話で言えば、全く関係のない世界から入り、それこそ一からのスタートであっただろうから、長く感じたのではないだろうか。

 4年前の取材当時、東京ダービーに初めて管理馬ラストキングを出走させたが、15着に敗れ「眠れないくらい悔しい」と言っていた同師。今年スマイルピースで東京ダービー2着(0.8差)、そして黒潮盃の重賞初勝利。「夢」の実現の裏には相当の努力があった事は、想像に難くない。
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