JBIS-サーチ

国内最大級の競馬情報データベース

第196回 『春は別れの季節』

2025.04.25

 “Mr. PINK”こと内田利雄騎手が3月末をもって現役を引退、地方競馬全国協会参与(マイスター職)に就任することが発表された。


 軽くプロフィールを紹介すると、内田利雄騎手は1961年10月5日、埼玉県出身の63歳。川口オートの選手だった父の知り合いの紹介で騎手を目指し、1978年10月7日、宇都宮競馬場でデビュー。8Rのタサハヤテに騎乗し2着だった。初勝利は翌日8日の1Rをゴールショウリで勝ち初勝利をあげる。以来46年で地方競馬通算26,021戦3,613勝、重賞80勝。中央競馬で47戦3勝、重賞1勝。海外でもマカオ、韓国などで158勝、重賞3勝の成績をあげている。


 ベラミロード(00年東京盃、01年TCK女王盃)やブライアンズロマン(98年さくらんぼ記念)、またカッツミーで02年ラジオたんぱ賞に勝っている。


 筆者が初めてお会いしたのは、確か94年だと記憶している。室井康雄厩舎によくお邪魔していたので、その頃会っているはずだが、実はあまり記憶にない。


 当時宇都宮、足利には平澤則雄騎手(2,778勝)、早川順一騎手(愛知→栃木で2,505勝)、鈴木正騎手(2,314勝)、山口竜一騎手(栃木→北海道で2,843勝)など錚々たる顔ぶれが揃い、かなりレベルの高い競馬をしていたから、取材対象も多かったからかもしれない。内田利雄騎手も当時バリバリのリーディング上位騎手だったが、あの笑いを交えた物腰柔らかい感じは、今も昔も変わっていない。


 交流レースが始まり、北関東から活躍馬が続出したのはそういった2,000勝騎手が群雄割拠するような、そんな背景もあったのだと思う。


 なにを隠そう筆者はとちぎテレビの「宇都宮競馬中継」解説者だったので、北関東ダービーやとちぎ大賞典、とちぎマロニエカップなどでよく宇都宮競馬場には行っていた。


 今でも時々ネタにしているが、番組自体は宇都宮市内のスタジオで行われていたので、早朝に競馬場に行って取材をして、昼頃には競馬場を離れるため、これらのレースを生で観戦したことはほぼない。開催の後半になると焼きそばが100円に値下げされるのだが、値段が下がる前に後ろ髪引かれる思いで競馬場を後にする。


 宇都宮競馬場が廃止になり、どこに移籍するのか注目されていたが、期間限定騎乗の制度を利用して、事実上のフリー騎手となったのは驚いた。当時は騎手会所属騎手(フリー)の制度もなく、厩舎に所属するどころか、競馬場にも所属しない騎手は前代未聞だったし、その後も内田利雄騎手を最後に“本当のフリー騎手”はいない。


 岩手、笠松、浦和、兵庫、高知、佐賀、福山、そしてマカオと韓国。2012年に浦和・小嶋一郎厩舎所属となるまで8年間の“さすらいジョッキー”生活。


 残念ながら筆者はその頃はなかなか会うことが出来なかったし、浦和に定着してからもむしろ宇都宮時代よりも会う機会が減っていた。


 3月6日に、今年度限りでの引退が発表された。誰しもいつか引退の日は来るのだけれど、やはり寂しさはある。宇都宮に所属していた騎手も、これで野澤憲彦騎手、加藤和博騎手、藤江渉騎手の3人になってしまった。廃止当時金髪の若者だった森泰斗騎手も、昨年引退し、つい先日調教師試験に合格した。


 最近はご無沙汰しているが、廃止当時の競馬場の職員さん達とは今でも繋がりがある。さすがに廃止後20年経っているので、皆さんその後の職場も定年で退職され、時の流れを感じる。21日の浦和競馬場に来ていた方もいたと後で聞いた。


 引退式の後に内田利雄騎手の音楽仲間でもある「ひまわる」のメンバーとのライブが行われ、その後並んでくれたすべてのファンの方とのサイン会が行われた。内田利雄騎手からの要望だと聞いたが、翌日のJRA発売の準備があるにもかかわらず、OKを出した浦和競馬場の英断だ。サイン会は22時20分頃に終了したそうだ。


 「したそうだ」というのは、実は最後まで居なかった。待機所(喫煙所)で所属の藤原調教師達と雑談しながら待っていたのだが、列が短くなる気配もなく、翌日の調教もあるため「帰ろう」ということになった。


 今後、内田利雄マイスターは那須の教養センターに常駐し、騎手の育成に携わるそうだ。那須ならすぐ行けるし、宿舎も温泉もあるから、またゆっくり思い出話でもしようと思う。
 

 長い間お疲れさまでした。

トップへ