南関フリーウェイ
第17回 JRA青木孝文新規調教師にお話を伺いました
2016.04.27
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今回はJRAの青木孝文調教師について綴っていくことにしましょう。
青木調教師は群馬県出身の34歳。今年調教師免許を取得し、2017年3月、美浦での開業を予定しています。
実は青木調教師とは、師が牧場従業員時代からのご縁。当時は人懐っこく、それでいて強い上昇志向を持つアツい青年という印象でした。
青木調教師が競馬に興味を持ったのは中学生の頃。初めての現地観戦は東京競馬場で、国際競走となった最初の年、1996年の毎日王冠(優勝馬 アヌスミラビリス(イギリス))だったそう。「親は大学に進学させたかったようですが、僕はとにかく馬の世界に入りたかった。馬に乗りたくて仕方なかったんです。高1の時に親が『好きにすればいいよ』と折れてくれて、高校卒業後は浦河のBTCに行きました。馬に乗る技術なんて無い、やる気だけはあるド素人でしたね(笑)」。
BTCを経て就職したのがビッグレッドファーム。配属先はBRF真歌で、そこで出会ったのがダートの短距離路線で活躍したマイネルセレクトでした。
マイネルセレクトといえば、2003年に大井で行われたJBCスプリント(G1)でサウスヴィグラスのハナ差2着になった馬。この年、大井では改修工事のため、レースは通常より10メートル短い1190mで行われていました。あと10mあれば・・・そんな悔しさを跳ね返したのが翌年の同レース。鞍上に武豊騎手を迎え、見事GIタイトルを獲得しました。
「マイネルセレクトがJBCで2着だった時は牧場従業員として観戦しました。あの10mは悔しかったですねぇ。優勝した年は、厩務員に合格した状態での現地観戦でした。2004年のドバイGシャヒーン(G1)には自腹で応援に行きましたよ。まだ若くて、海外旅行なんて慣れていなくて(笑)」。
そんな青木調教師にとって運命の馬とも言える存在となったのが、厩務員時代に担当し、2007年の日経賞(GII)、2009年2010年のアメリカジョッキークラブカップ(GII)を制覇、クイーンエリザベス2世カップ(G1)にも出走したネヴァブションです。
「血統がすごくいいわけではないし、走るからといって僕のところに来たわけではなく、たまたま巡り合った馬。運が良かったかな(笑)」。そう話す青木調教師ですが、掴んだ運を自分の力で育て、最良の結果を生むための努力を惜しまなかったことは想像に難くありません。
「2月にアロースタッドでネヴァブションに会った時、『あぁ、こんないい馬やってたんだな』と思いましたよ。種牡馬としては苦戦しているけど、マイネルセレクトの仔に携われなかった分もネヴァブションの仔はぜひ手掛けたい。そう思う調教師は僕以外いないし、この思いはネヴァブションとずっと一緒にいた僕しか抱けないでしょう。そんな僕の夢を厩舎の従業員に負わせるつもりはないけれど、夢が無いまま仕事をするのもつまらないですから」。
ネヴァブションから学んだことは'人間が諦めないこと'と青木調教師。ここまで、悔しさややりきれない思いをバネにして来たと話し、応援してくれた師匠・小桧山調教師への感謝の気持ちを何度も口にしていました。
「調教師としての目標はいろいろあります。小桧山調教師からは『王道を行けよ』と言って頂いたので、そこを目指していきたいですね。王道とは言っても、そこに至るまでの方法は自分の気持ちを貫きたい。人を育てながら、馬を預けてくれるオーナーや従業員、応援してくれるファンの皆さんなど、そういう人たちを楽しませながら。調教師ができるファンサービスは限られているけれど、厩舎見学会なども積極的に行えればと思っています。皆さんに見てもらうことで、スタッフの張り合いや遣り甲斐に繋がっていくと思うので。実際に開業したらいろいろ大変でしょうけど、考えている方が考えていないよりもハナ差先に出ますから。3月にドバイに行ったのですが、前回(マイネルセレクト)行った経験も活かせたし、何より調教師になってからだと見える景色が違う。いい刺激になりましたよ。今度はあの場所に自分の管理馬で行きたいですね」。
先日、久しぶりに大井競馬場を訪れた青木調教師。「JBCを観たのを思い出しますね。今度は調教師として、大きなレースでここに来られれば」。
そんな話を聞きながら、牧場従業員時代、調教を手がけた馬のレース中継を観ながら、一生懸命声援を送っていた20代前半の青木調教師の姿をふと思い出しました。きっと近い未来、青木調教師の管理馬のレースを観ながら、あんな風に声援を送る若きホースマンの姿が日本のどこかにあるのでしょう。
プライベートでは、おばあちゃんに道を聞かれ、子どもに好かれる親しみやすい魅力も併せ持つ青木孝文調教師。
ダートグレード競走でお会いできる日も楽しみです!
青木調教師は群馬県出身の34歳。今年調教師免許を取得し、2017年3月、美浦での開業を予定しています。
実は青木調教師とは、師が牧場従業員時代からのご縁。当時は人懐っこく、それでいて強い上昇志向を持つアツい青年という印象でした。
青木調教師が競馬に興味を持ったのは中学生の頃。初めての現地観戦は東京競馬場で、国際競走となった最初の年、1996年の毎日王冠(優勝馬 アヌスミラビリス(イギリス))だったそう。「親は大学に進学させたかったようですが、僕はとにかく馬の世界に入りたかった。馬に乗りたくて仕方なかったんです。高1の時に親が『好きにすればいいよ』と折れてくれて、高校卒業後は浦河のBTCに行きました。馬に乗る技術なんて無い、やる気だけはあるド素人でしたね(笑)」。
BTCを経て就職したのがビッグレッドファーム。配属先はBRF真歌で、そこで出会ったのがダートの短距離路線で活躍したマイネルセレクトでした。
マイネルセレクトといえば、2003年に大井で行われたJBCスプリント(G1)でサウスヴィグラスのハナ差2着になった馬。この年、大井では改修工事のため、レースは通常より10メートル短い1190mで行われていました。あと10mあれば・・・そんな悔しさを跳ね返したのが翌年の同レース。鞍上に武豊騎手を迎え、見事GIタイトルを獲得しました。
「マイネルセレクトがJBCで2着だった時は牧場従業員として観戦しました。あの10mは悔しかったですねぇ。優勝した年は、厩務員に合格した状態での現地観戦でした。2004年のドバイGシャヒーン(G1)には自腹で応援に行きましたよ。まだ若くて、海外旅行なんて慣れていなくて(笑)」。
そんな青木調教師にとって運命の馬とも言える存在となったのが、厩務員時代に担当し、2007年の日経賞(GII)、2009年2010年のアメリカジョッキークラブカップ(GII)を制覇、クイーンエリザベス2世カップ(G1)にも出走したネヴァブションです。
「血統がすごくいいわけではないし、走るからといって僕のところに来たわけではなく、たまたま巡り合った馬。運が良かったかな(笑)」。そう話す青木調教師ですが、掴んだ運を自分の力で育て、最良の結果を生むための努力を惜しまなかったことは想像に難くありません。
「2月にアロースタッドでネヴァブションに会った時、『あぁ、こんないい馬やってたんだな』と思いましたよ。種牡馬としては苦戦しているけど、マイネルセレクトの仔に携われなかった分もネヴァブションの仔はぜひ手掛けたい。そう思う調教師は僕以外いないし、この思いはネヴァブションとずっと一緒にいた僕しか抱けないでしょう。そんな僕の夢を厩舎の従業員に負わせるつもりはないけれど、夢が無いまま仕事をするのもつまらないですから」。
ネヴァブションから学んだことは'人間が諦めないこと'と青木調教師。ここまで、悔しさややりきれない思いをバネにして来たと話し、応援してくれた師匠・小桧山調教師への感謝の気持ちを何度も口にしていました。
「調教師としての目標はいろいろあります。小桧山調教師からは『王道を行けよ』と言って頂いたので、そこを目指していきたいですね。王道とは言っても、そこに至るまでの方法は自分の気持ちを貫きたい。人を育てながら、馬を預けてくれるオーナーや従業員、応援してくれるファンの皆さんなど、そういう人たちを楽しませながら。調教師ができるファンサービスは限られているけれど、厩舎見学会なども積極的に行えればと思っています。皆さんに見てもらうことで、スタッフの張り合いや遣り甲斐に繋がっていくと思うので。実際に開業したらいろいろ大変でしょうけど、考えている方が考えていないよりもハナ差先に出ますから。3月にドバイに行ったのですが、前回(マイネルセレクト)行った経験も活かせたし、何より調教師になってからだと見える景色が違う。いい刺激になりましたよ。今度はあの場所に自分の管理馬で行きたいですね」。
先日、久しぶりに大井競馬場を訪れた青木調教師。「JBCを観たのを思い出しますね。今度は調教師として、大きなレースでここに来られれば」。
そんな話を聞きながら、牧場従業員時代、調教を手がけた馬のレース中継を観ながら、一生懸命声援を送っていた20代前半の青木調教師の姿をふと思い出しました。きっと近い未来、青木調教師の管理馬のレースを観ながら、あんな風に声援を送る若きホースマンの姿が日本のどこかにあるのでしょう。
プライベートでは、おばあちゃんに道を聞かれ、子どもに好かれる親しみやすい魅力も併せ持つ青木孝文調教師。
ダートグレード競走でお会いできる日も楽しみです!