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第143回『JBC20周年』

2020.11.25
 11月3日、20回目となるJBC競走が行われる。今年と来年の2年は、門別競馬場で2歳のカテゴリー「JBC2歳優駿(JpnⅢ)」が新設、同日に行われ、20周年に華を添える。

 JBCは地方競馬、そして我々専門紙にとっても、期待が大きい反面、やること全て初めてということが多く、特に最初の数年は前例のない事だらけだった。

 20年前、なにしろ第1回ですべて手探り。1日にGⅠ競走2レース、1日10レース制で全レースにレース名が付いた。協賛レースは今では珍しくはないし、全レースにレース名が付くことも当たり前のように行われているが、当時はそういう事が想定されておらず、システムを更新した方が早いか、フィルムで貼りつけた方が早いか、そんなところからのスタートであった。

 交流レース自体は既に盛んに行われていて、取材体制は全国の専門紙各社の協力の下、普段通りに行われていたが、紙面にお祭り感を出そうということになり、結局、会社に籠り徹夜で新聞を制作したことを覚えている。

 あの当時、地方競馬は売上不振に苦しんでおり、南関東の新聞も刷り部数が落ちていたのだが、全国発売ということもあり、印刷部数も大幅増。今でこそ毎日のように全国の競馬場、場外発売所に新聞を配送しているが、それまで新聞を運んだ経験のない場所もあり、まずどうやって運ぶかを考えることからだったことも覚えている。

 開催する大井競馬場も手探りで、招待客への対応やイベントなどの準備で、直前は誰もこちらの相手をしてくれないぐらい忙しそうだったが、取材の導線や区分などは帝王賞や東京大賞典に準じた形でもあり、混乱はなかった。

 そうして迎えた2001年10月31日。1レース前に旧中央スタンドの記者席に顔を出そうとしたら、お客さんをかき分けるのが大変なぐらいの入場客で、場内は沸き返っていた。本場入場者数は4万8,454人(最終)。当日の売上も39億3,766万1,900円のレコード(当時)。

 レースの写真を撮り、レース後のコメントを取り、そして次のレースのパドックへ向かい...を延々繰り返していたのだが、最終レースが終わったのが20時40分すぎ。原稿など終わったのが22時ぐらいだったのだが、中継のレポーターさんと、厩務員のベンチに座って「今日は疲れたねぇ」と話したことだけはよく覚えている。

 翌年の第2回は盛岡開催で、こちらは船橋版の新聞を作って、あとは岩手から送られてくる新聞を待てばいいかと思ったら、まさかの場外発売ということで、馬柱を掲載することに。13:35発走の7Rの後に芝のオパールカップとJBC2競走が発売され、8Rは16:15というサイマル発売。2時間40分のレース間隔は記憶になく、これも地方競馬初だったと記憶している。芝のレースの発売も初めてで、急遽芝のパターンを作った。

 当日は盛岡競馬場へ行ったが、至る所にJBCのロゴをあしらった装飾がなされ、岩手の主催者らしい華やかな雰囲気。持ち回りの良さだ。

 当日の本場入場者数は14,287人。サイマル発売されたこともあるが、今後持ち回りで全国を巡るであろうことを考えれば、数字的には物足りなさもあるが、今思えばベンチマークでもあった。

 第3~4回は大井競馬場で行われ、続く第5回は名古屋競馬場での開催。「フサイチネット」の冠が付いたJBCだったが、当時地方競馬のサブタイトルと言えば「農林水産大臣賞典」が定番で、電鉄や新聞社、放送局の冠名が付く中央版とは違い、対応していなかった。そういう意味でも、JBCが地方競馬に与えた影響は、大きかったのだと改めて思う。

 当日は大井競馬場で重賞のTCKディスタフが行われるため、名古屋には行かなかったが、大井競馬場では場外イベントが行われた。内馬場のスーパーカーは見られたが、長い行列が出来たチャンピオン牛は、数時間並んだ挙句、残念ながら売り切れ。サイマルイベント自体は盛り上がり、それなりに入場者で賑わったのだが、売上は18億7,194万5,700円と振るわず。枠入り不良でレースも遅れ、課題もあった。

 第6回は川崎開催。夜→昼の2日間で行われ、36億604万3,100円と盛り返した。しかし1日に複数のGⅠというコンセプトから外れるためか、2日開催はこれ以降行われていない。

 振り返るに、JBCが現在の競馬に与えた影響は大きいと感じる。紙幅が尽きた。第7回以降は30周年で振り返ることにする。
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