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第95回 競馬場のあの頃物語

2022.10.26
 先日、船橋競馬場の歴史を調べる機会がありました。その際に参考にしたのが国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス。もともと歴史と地図が好きということで、いざ調べ始めると、やめられない止まらない。その流れで各地の競馬場の「あの頃」を見てみることにしました。
 まずは、きっかけとなった船橋競馬場。大雨の翌日に「海岸厩舎(向こう正面にある厩舎地区)でウナギが出た」、「馬場にザリガニがいた」という話を耳にしたことがあります。現在はリニューアル工事によって舗装されたり建物の下になったりしていますが、かつて、レース後の馬たちが戻って来る辺りには、水はけが悪く、どんなに砂を補充しても、大きな水たまりができる場所がありました。

 これは、船橋競馬場が'埋立地に建っている'ということに原因がある模様。調べてみると、明治時代の船橋の海岸線はもともと国道14号線(旧千葉街道)の辺り。国道よりも北側(陸側)、街の中にある船橋大神宮(意富比(おおひ)神社)に、夜間に航行する船の安全を守った'灯明台'があることにも納得です。もともと海岸線は今よりもっと内陸にあったのです。

 船橋競馬場が開場した1950年代は、第2コーナーの目前まで海が広がり、海岸調教や海釣りなど、人馬共に海の恩恵を受ける生活をしていました。その一方で、埋立地特有の水が浮きやすい地盤との闘いは長年の課題となっており、2011年の東日本大震災の際には液状化によって電柱が傾いたり、馬場が水浸しになったりするなどの大きな被害を受けました。

 今は遠くなった海岸線ですが、向こう正面に見える'浜'を思わせる松林や、夏の夕方になると吹いてくる潮風からも海の存在を感じることがあります。

 また、競馬場の向かい側、ららぽーと東京ベイがある場所には、大浴場をはじめプールや遊園地を備えた巨大レジャー施設「船橋ヘルスセンター」がありました。人気テレビ番組「8時だヨ!全員集合」の公開放送も行われ、一大観光スポットとして多くの観光客で賑わっていたとのこと。誰かの大切な思い出が刻まれた地と共に、船橋競馬場は歩んできたともいえそうです。

 南関東競馬の他3場はというと、1950年代、大井競馬場は'橋1本で繋がっている島状の埋立地'にありました。現在は駐車場になっている場所には初の舗装路を備えた大井オートレース場があったとのこと。また、1970年代の写真を見てみると、内馬場に放牧地やたすき掛けの芝のコースがあることが確認できます。

 川崎競馬場は少し変わった経歴を持っていることがわかりました。もともとは、1906年、同地に競馬場が造られ、自由民権運動で知られる板垣退助を中心とした京浜競馬倶楽部によって競馬が開催されたとのこと。その当時は軍馬の強化が国力増強になるとされ、競馬が推奨されていた時代でした。その後、政府による馬券発売禁止令によって競馬場は閉鎖。跡地には工場が建設されましたが、太平洋戦争によって焼失し、その工場跡地で復活を遂げて、現在に至るのが川崎競馬場です。すぐ近く、国道を挟んだ場所に位置する稲毛神社では、戦災の跡が残るご神木が人々の暮らしを見守り続けています。

 浦和競馬場は1947年に浦和記念公園内に建設されました。当時の航空写真の中に、宅地と畑に囲まれた素朴な浦和競馬場の姿を見つけると、今も地元の人々と親密な距離を保ち、親しまれている原点を感じます。
  第95回 競馬場のあの頃物語の画像 では、他地区の競馬場はどんな「あの頃」を持っているのでしょう。岩手の水沢は子供の頃から親しんでいる土地ですが、縁者の話によると「今、水沢競馬場がある所は、昔は寒天などを植えている畑だった」とのこと。もとは市街地にあった水沢競馬場が現在の場所に移転したのは1965年のことでした。

 園田競馬場は1930年開場。1961年の航空写真を見ると、田畑に囲まれ、向こう正面に猪名川沿いの緑を望む競馬場の姿がありました。遡って1948年の航空写真では、内馬場が畑になっている様子を確認。終戦後の食料難の中、競馬場も苦しい時代を生き抜いて来たことが伝わってきます。

 少し駆け足になりましたが、それぞれの競馬場の「あの頃」を振り返ると、そこには必ずその場所で生きた誰かの存在があり、それぞれの大切な場所だったのだと思うことも多々。歴史も地図も好き。「競馬場のあの頃探索」はまだまだやめられそうにありません。

 なお、掲載写真の出典は国土地理院ウェブサイトとなっています。
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1

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