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第133回 『ブエノスアイレス午後1時』

2020.01.21
 顔の表面が油でテカりすぎてくると、フェイスシートでも拭き取れなくなる。トランクの中に入れてあった洗顔フォームでなければ、この幾層にもこびりついた顔の油を落とすことはできないだろう。

 羽田国際空港を発ってから約31時間。日本のほぼ真裏、時差で言うとマイナス12時間というアルゼンチンの首都、ブエノスアイレスのエセイサ国際空港に降り立つことができたのは、現地時間の10月24日の午後1時となる。

 逆転しているのは時間だけでは無い。これから冬を迎えようとしている日本とは真逆に、アルゼンチンはこれから夏が訪れる。トランクの中には、半年ほど前に着ていた半袖のシャツと薄手のダウンを押し込んだのだが、結果的にはどちらも用意しておいて良かったと思えた程に、アルゼンチンは寒暖の差が激しすぎる国でもあった。

 話はこの地に到着した、5か月前に遡る。HBAトレーニングセールの前日、中継を担当していたグリーンチャンネルのプロデューサーと、筆者が出演している番組のディレクターと酒宴を共にした際、突然、そのディレクター(Hさん)から、「村本さん、アルゼンチンに行きませんか?」と話を持ちかけられた。

 アルゼンチンという単語を聞いて、すぐに思いついたのが、アントニオ・ロッカというプロレスラーの得意技だった、アルゼンチン・バックブリーカー。その後に世界的にも知られるアルゼンチンタンゴのノスタルジックなメロディーが脳裏をよぎり、そのメロディーと蹄の音が重なるように、競走馬のアルゼンチンタンゴが脳裏から第4コーナーを回って、目の前に駆けだしてきた。

 「近年、アルゼンチン産馬はサトノダイヤモンドの母であるマルペンサ(ARG)など、多くの繁殖牝馬が日本に来ていますし、馬産地であるアルゼンチンを紹介するというロケに、村本さんも同行していただきたいのですが...」そのHディレクターの言葉が信じられなく思い、酒宴での冗談だろう、とプロデューサーの顔を見ると、合点承知とばかりにニコニコとした笑顔を向けてくる。

 思わず、ケンドーコバヤシばりの、「正気ですか?」との言葉が口をつく。馬産地ライターを名乗っているように、1年365日のほとんどを北海道で過ごしている自分。23歳の頃、POGの取材でバレッツセールが開催していた、ロサンゼルスの近郊にあるフェアプレックスパークに取材で行ったことはあるが、それから海外に行こうと思ったことは一度も無く、勿論、パスポートもとうの昔に失効してしまっていた。

 先ほどの言葉が、ケンドーコバヤシのネタであることなどどうでもいいように、Hディレクターは、「ロケは9月か10月を予定しているのですが、その頃の村本さんのスケジュールって、どんな感じですかね?」その言葉にもう一度、ケンドーコバヤシのネタをかぶせようとも思ったのだが、他のネタが何か思いつく前に、「そう言えば、北海道シリーズが終わると、仕事が暇になるなあ...」とのふとした気持ちが、反射的に自分の口から、「その辺は暇ですね」との、何のボケにもなっていない言葉を発することになっていた。

 その言葉を聞いてニンマリとする、Hディレクターとプロデューサー。2人の中では今の言葉は、OKという意味に捉えられてしまったと気付いたのは、その数か月後にHディレクターからかかってきた、「村本さん、正式にアルゼンチン行きのロケが決まりました!」との電話があった時だった。まさに驚天動地かつ青天の霹靂。スマートフォンを片手に周章狼狽しながら、周りを右往左往した自分は、まず一呼吸置いてから、ケンドーコバヤシばりの低音ボイスを作った上で、「Hさん、正気ですか?」とスマホに向けて話し出していた。あの時のことを思うと、約31時間前に羽田国際空港を出たのが嘘のようである。聞くところによると、ブエノスアイレスでは「ケチャップ強盗」なる不届き者がいるらしい。その手口とは、「ケチャップがかかっていますよ?」と突然、声をかけられて、気を許したかと思いきや、身の回りの物を持ち去っていくらしい。ちょうど、エセイサ国際空港内には、ケチャップが手に入りやすいマクドナルドがある。店内にいる人間の全てが強盗に見えてきた途端、ハンバーガーを持っていると思われるお客さんとすれ違った時、その匂いに機内食では満たされ無かった空腹感が一段と沸いてきた。
(次号に続く) 
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