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第168便 イエス,ウィー,キャン

2008.12.02
 ウオッカとダイワスカーレットとディープスカイが熱戦を演じた秋の天皇賞の翌日,わが家へ来たマルコメくんが一泊した。
 マルコメくんは浦河の牧場の息子である。20年前,10歳だった彼は,「マルコメ味噌」の宣伝をする子役によく似ていて,私がニックネームで呼んだ。今はメタボくんとでも変えたい体型になってしまったが,私にとってはどうなろうとマルコメくんなのだ。独身である。

 「天皇賞を見に来たの?」ビールで乾杯をして私が聞いた。

 「生産馬も出ていないのに,うちにそんな余裕はないすよ。長いこと世話になってる大井の馬主さんが病気で,ほんとうは親父が見舞いに来なくちゃいけないんだけど,親父も検査入院なんか続いてるじゃないですか。それでぼくが来ました。せっかくだから天皇賞を見に行って,それで今日は川崎の病院へ行って。
 思ったんだけど,うちはジイさんの時代から50年も牧場をやっていて,地方のGⅠには出したことがあるけど,まだ中央のGⅠには出したことがない。あの,人であふれて熱気のある競馬場で,パドックで,ウオッカとか見ながら,それを思って下を向いちゃいましたよ。入場者12万人と聞いたけど,12万人のなかに,そんなことを思って下を向いてた奴がいるだなんて想像する人,ひとりもいないすよね」とマルコメくんが笑い,

 「いるさ。おれがいる」と私も笑った。

 ひとしきり天皇賞の話や,株安,円高の話や,廃業した牧場の話などしたあと,「ここへ来るとき,横須賀線の4人掛けに座って来たんだけど,前にいる会社の重役ふうの人が,最近の若い連中は,新聞をしっかり読まなくなったのでダメだっていう話を,部下の人に言ってるんですよ。

 ぼくもね,最近は新聞というのを,さっぱり読まなくなってるんすよね。ケータイでニュースを見たり,テレビで見てれば,新聞なんていらないって思うんすよ。何がダメなのかって,ヒマだし,その話を聞いてたら,活字で読んで考えるのと,画面で見て思うのは,どっちも大事で,そのどっちかだけというのは,せまい人間にしかなれないって話なんですよ。

 で,せまい人間というのは,せまい人間としか仲間になれないから,もっとせまくなっちゃう。くる日もくる日も馬の世話をしていて,馬のことはひとより解っているつもりだけど,せまい人間になってしまうかなあって思うこともあるので,その前に座っていた人たちの話が,だんだん他人事でなくなってきたわけすよ。

 この話,どう思いますかね。せまい人間はせまい人間としか仲間になれないというのが,ぼくにはビシッと,ひびいてきたんす」そうマルコメくんが焼酎のお湯割りを啜りながら言った。

 「それはそうだよ。新聞はちゃんと読んだほうがいいさ。おれは仕事に必要でもあるから,これはあとでじっくり読み返そうと思った記事は切り抜いて,スクラップしてる」と私は言い,そういうものは他人に見せるものではないと思いながらも,40歳も若い人がわざわざ訪ねてきてくれて,人間と人間の時間を持ちたいと思ったのだから,それを見て何か感じてくれたらうれしいなと,仕事部屋へスクラップを取りに立った。

 私は飛行機の機内誌をもらってきて,そこに新聞の切り抜き記事をセロテープで貼っている。「例えばここに」と私はページをめくって,「三味線奏者の上妻宏光という人が,おやじのせなか,というのに登場してる。それで読んでいて,ここはもういちど,あとで読みなおしてみたいと感じると,切り抜いて貼るわけ」とマルコメくんに見せた。

 『15歳で腕を磨くために東京に。上京後,茨城の店に修理に出していた三味線が,急きょ必要になったことがありました。父親が鈍行で3時間ほどかけて上野駅まで届けてくれた。「飯食おう」という僕の誘いを断り,また鈍行でとんぼ返り。僕を東京に出すために特急代金を節約しているのか。ジーンときました』というところに私は赤い線を引いている。

 その記事を読んだマルコメくんに,「この人,そこでジーンときたので,プロになれたのかもしれない。それにおれ,これ読んで,まったくのように忘れていた,てめえのおやじの労働ってのを思いだしたんだ。べつにだからどうってこともないけど,この人の弾く三味線の音には,そのジーンときたものが,ひそかにこもって,聴く人に何かが伝えられているんだな,たぶん」と私が言った。

 私の言うことをマルコメくんが一生懸命に聞いているので,私はうれしくなっている。べつに恩に着せようというのではないが,最近は若い人と話をつきあっていて,うれしくなるなんてこと,あまりない。「例えばここに,元阪神タイガースで牛若丸というニックネームのついた吉田義男の話が載ってる。吉田義男は監督もやった」

 私はスクラップブックのページをめくった。『われわれの仕事って,何ていうか,職人です。ぼくは自分では,監督よりも,球を捕ったり,投げたりということの職人だと思ってます。独創性とか個性とか,「こいつしかできない」ていうものを編みだしていくことが,プロですからねえ。好きなことだから,苦にならない』と吉田義男が語っている。

 「こいつしかできないていうものを編み出していくことがプロ」あらためて私が言い,
 「好きなことだから,苦にならない」とたしかめて言い,
 「この二つのことを,自分に言い聞かせるために記事を切り抜いた。こいつしかできないってものが編み出せなくなったら引退だ。そう思って,もうひとつ,おまえ,自分の仕事を,好きでやってるのか,仕方なくやってるのかと,問いつめる材料にしようという気もあるんだ」とつけくわえた。

 そこでマルコメくんがずいぶん黙った。ずいぶんといっても,ほんの3分か5分くらいのものだが,ずいぶんと私が感じたのは,マルコメくんの内部が何かを求めて,しっかりと黙っている,そう思えたからである。「誘いをかけたり,かかってきたり,そうでなくてもさびしくて,仲間のいる店へ行って酒を飲むじゃないすか。みんな怠けてもいなくて,けっこう気を入れて働いていて,その点では満足してるんだけど,やっぱり馬が走らんかったり,売れんかったり,この時代,どうしたって不安を感じてるんすよね,みんな。

 こんなに競馬が一極集中みたいになっていいのかって,そんなふうに話すんだけど,結局は昨日のように今日がきて,また明日。ま,どうにか飯は食えてるけど,何かね,オバマじゃないけど,チェンジして,イエス,ウイ,キャンしたい。

 そんなことを,天皇賞のとき,ひとりでスタンドの人のなかにいて思ってたところへ,新聞を読まないからダメって聞こえてきて,自分のことを言われたみたいな気がしたんす。チェンジしたいすよね。イエス,ウイ,キャンと叫びたいすよね。けっこう陽気に仕事をしているけど,今,浦河で,ぼくみたいな若い奴が,チェンジをあきらめ,イエス,ウイ,キャンなんて,とても叫べんわって思ってるんすよ。とりあえず,できることからぼくは,明日から,新聞を読むことにします」

 「よく電車のなかで,他人の声を聞いたもんだよ。他人の声を聞かないと,自分の声も聞こえてこなくなっちゃうものね。仲間の声しか聞こえないと,アウト」と私が言い,なんとなく2度目の乾杯をした。
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