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第371便 アイヤー、アイヤー

2025.11.12

 ひとり暮らしをしていると、夜になって無音とつきあいながら、今日はケイタイで2度喋ったが、あとは誰とも喋っていないなあと、そんなふうに思うことがよくある。
 テレビをつけると、これから島津亜矢が、北島三郎が歌ってヒットした、星野哲郎作詞船村徹作曲の「風雪ながれ旅」を歌うところだった。
 星野哲郎(1925-2010)の今年は百年生誕祭で、今日は9月30日、星野哲郎の誕生日で、10代の島津亜矢が星野哲郎に弟子入りしたという縁もあっての「風雪ながれ旅」のようだ。
 百年祭といえば、京都競馬場も今年が開設100周年記念だなあと思いながら、歌い始めた島津亜矢の、泣くのをこらえていそうな眼に、私も泣きそうになってしまった。島津亜矢には島津亜矢にしか分からない、師匠星野哲郎との時間があるのだろうな。
 「風雪ながれ旅」の詞に、「アイヤー、アイヤー、つがる、はちのへ、おおみなと」が1番、「おたる、はこだて、とまこまい」が2番、「るもい、たきかわ、わっかない」が3番に出てくる。
 さすが島津亜矢、どうにか泣かずに歌いあげ、プロだよなあと感じて私は、そのあとの歌も聴くと、せっかくの「風雪ながれ旅」が消えてしまいそうな気がしてテレビを消し、白い紙に、「津軽、八戸、大湊、小樽、函館、苫小牧、留萌、滝川、椎内」と漢字を並べて書いた。
 私は昭和41年から43年まで、東京の赤坂に本社のある貴金属会社の札幌支店で働き、北海道の各地へ営業で月に一度の出張をしていた。
 私は白い紙に、思いだせる取引店の名を書き始めた。札幌のマキノ、徳永、玉屋。苫小牧の青塚、室蘭の横山、函館の棒二森屋、渡辺、江別の吉川、岩見沢の大田、深川の片山、旭川の蜂谷、秋田堂、帯広の藤屋デパートとか書き、ああ、釧路、根室、北見、砂川とか、店名は思いだせないけれど、店主の姿は思いだせるよなあとか、自分が30歳から32歳までの「風雪ながれ旅」をなつかしんだ。
 そうだった、肺がんが見つかったばかりの父親が、ひとりで千歳空港に来たのだった。その晩、登別の温泉宿に行き、自分はもう長くは生きられない、兄貴たちを助けてやってくれないかと、学校も行けずに小僧あがりで独立して、懸命に営んできた薬品問屋を頼むと言いに来たのだ。
 「お前さんは若い時も好きに生きてきた。人生の何年か、家のために生きてもいいんじゃないか」
 と父親は笑いながら言った。
 言われてみればおれ、生まれ育った東京の下町を離れた二十歳すぎ、京都で3年、奈良で1年、松江で半年、バーテンをしながら暮らしていた。宍道湖のほとりのベンチに座って、友だちからの、もうひとりの友だちの自死を知らせる手紙を読み、そろそろ東京へ帰る潮どきだなあとか思ったのだった。
 貴金属会社をやめるのに、父親の知り合いの医師にニセの診断書を作ってもらい、薬品問屋での私の仕事は、青森、岩手、秋田の薬店や医院が取引先の営業だった。「風雪ながれ旅」に出てくる津軽、八戸、大湊で、10年近く、床ずれ防止のマットを一生懸命に売りこんでいた。
 思い返してみると、私の「風雪ながれ旅」を支えてくれたもののひとつに、競馬があるなあ、と私は思った。何処でどんな仕事をしていても、人生がつまらないとか、悲しいとか、空しいとか思わなかったのは、競馬が好きで、いつも競馬が人生の道づれになってくれていたからかもしれない。


 そんな私が、苫小牧での仕事を終え、室蘭へ向かう途中の列車の窓から見える牧場の景色は、私にとって夢のかたちだった。
 そうか、そうだよなあ、この馬は強い、この騎手はうまい、この調教師は凄いとか言っているのに、生まれてきた馬を育て、競走馬としておくりだしている牧場のことは、少しも知らない。
 列車の窓から見える牧場は、社台ファームの社台分場だった。休日に私は、3歳の娘をつれて、よく社台分場へ行くようになった。
 何度か行くうちに、
 「ガ―サントって知ってるかい?」
 と声をかけてくれた人がいた。私より数歳年上の松浦富蔵さんだった。
 私は緊張してガ―サントの前にいた。この馬が凄い種牡馬のガ―サント。私は息を止めるようにして見つめた。
 松浦さんが白老の海辺の食堂で、私と娘にごちそうしてくれたことがあった。
 私は松浦さんのことを知りたかった。昭和6年に岩手県西根に生まれ、13歳で千葉の八街の開拓事業団に奉公。そこに同じ岩手出身で、騎手志望をあきらめた人がいて、千葉の富里の社台牧場を紹介してくれた。馬のいる仕事のほうがタチに合ってると思った松浦さんは、冬は富里、夏は白老と移動する生活。牧場で働く人にも私は興味を抱いた。
 昭和43年、東京へ戻る年、
 「今、コウユウが戻ってきてる」
 と松浦さんが、その年の桜花賞を清水出美騎乗で勝ったコウユウに会わせてくれた。
 言葉で生きる人間を感動させる言葉のない競走馬という意識が生じてコウユウを見詰めた。
 幸運にも私は42歳の時に、「自分の戦場」という小説を書いて「すばる文学賞」に応募して受賞した。兄や姉が、自分の思いどおりに生きたほうが、と言ってくれて、文章で生きようと決めた。
 いくつかの短編を発表するうち、競馬のCMを制作していた演出家の武市好古が読んでいてくれ、「この人の作品には、一生懸命に働いて、一生懸命に馬券を買う人が出てくる」と、雑誌「優駿」の編集長の宇佐美恒雄に会わせてくれた。
 それでグリーングラスで勝った有馬記念の観戦記を書くというチャンスに恵まれた。
 桜花賞馬ハギノトップレディの初出産をルポ、という仕事がきた。浦河の荻伏牧場の従業員寮に泊めてもらう。ハギノトップレディのお産が遅れ、10日ほど待ったが、その10日で見ていた牧場の日常、そこで働く人たちを書きたい、と強く思った。
 昔を思い出しながら、島津亜矢の「風雪ながれ旅」のシーンをよみがえらせ、
 「アイヤー、アイヤー、ふちゅう、なかやま、よど、にがわ」
 と替歌を私は歌っていた。

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