JBIS-サーチ

国内最大級の競馬情報データベース

第369便 昔話

2025.09.11

 近くまで来たから顔を見に寄ったと、植木屋のトベさんが玄関先に。暑いねえ。ひと休みして行きなよと私が言い、トベさんが家にあがってコーヒーをのんだ。トベさんは喜寿。まだ小型トラックを運転して仕事もしている。
 「おれがテレビを見ながら、何か食ってる番組が多すぎるってケチをつけたら、今年大学生になった孫娘が、じいちゃんはオワコンだから仕方ないよねって言うんだ。
 オワコンって何だって聞きたかったけど、聞くとさ、また何か言われそうで黙ったけど、オワコンって何?」
 とトベさんに聞かれ、
 「おれもよく分からないけど、たしかインターネット用語で、終わったコンテンツってことかな。人のことを言うより、いっときハヤったけど、今はもうアウトってことじゃないの。ま、われわれも、いっときハヤったってことにしてガマンしようや。ジイさんはみんなオワコンかもな。
 でも、時代の流れは早くって、結婚とか、ひとつの会社で人生を終えるサラリーマンとかもオワコンと言われてたけど、オワコンという言葉も、もう古いのかも」
 と私が言い、
 「そのうち、植木屋なんかいなくなる世の中になるのかねえ」
 とトベさんが笑った。
 異様に暑い日が続く。なるべく昼間は外に出るなと病院でも言われているけれど、なんとか踏んばってバスに乗り、電車に乗りかえ、駅前の大型商業施設のなかにある映画館で、原作吉田修一、脚本奥寺佐渡子、監督李相日、主演吉沢亮の、映画「国宝」を見た。
 歌舞伎の世界を描いた作品である。特に、女形役者に扮した吉沢亮の演技に圧倒されながら、3時間という上映時間、集中していた。
 映画のあとコーヒー店に座り、見てよかった映画との出会いに満足しながら、若いころにコンピューターというのが登場したとき、コンピューターが入りこめない世界が競馬と歌舞伎だと思っていたことを思いだした。
 母親が歌舞伎好きということもあって、誘われて学生時代の私は、よく歌舞伎座に出かけた。物語の筋とかいうよりも、変な言い方になってしまうのだが、歌舞伎役者が演じる肉体労働に私は惹かれていたようである。
 競馬も競走馬や騎手の、言ってみれば肉体労働の美しさに惹かれるのだ。血統のことも含めて、私は競馬と歌舞伎を結びつけて見ていた。
 スマホが鳴ってタムラくんからで、
 「8月2日の件、5名が7名になってしまったんですけど、いいですか?」
 という電話だった。
 タムラくんは50歳。大手の製薬会社勤務である。2009年の6月から9月まで、私がビッグレッド明和で暮らしていた時、ひとりでレンタカーで来て、放牧地にいる種牡馬ステイゴールドを見つめていた時、何処からですか、と私が声をかけ、よかったら寄っていきなさいよと誘ったら、私が借りていた小屋に来た。
 もう数年、夏にひとりで東京から来て牧場めぐりをするのが人生の幸せだと言うタムラくんは、話に花が咲いて、ビールをのみだして、私の小屋に一泊の流れになった。
 それからのつきあいである。タムラくんは5,000分の1の共有馬主クラブの会員になり、そのクラブの牧場ツアーで知りあった仲間とグループを作り、3か月に1度ぐらい、グループで私の家へ遊びにくるようになった。
 集まって最初の1時間は、私が話をし、ビールをのみだすのはそれから、というのがキマリである。
 これまでも何度かグループ活動につきあってきたが、私の話はいつだって昔話である。そんな昔話になんかつきあっていられないよということであればやめるのだが、昔話が面白いと思ってくれているのか続いている。
 センサー技術とAI(人工知能)によるデータ解析を組み合わせた競走馬管理クラウドが注目を集めているとか聞いているけれど、私の能力では理解不能。昔話をするしかないのだ。


 8月2日、中京12R3歳未勝利芝1200で、16頭立て8番人気、田口貫太騎乗のパリコレジェンヌが勝った。9戦目の未勝利脱出。パリコレジェンヌの生産者、厩舎スタッフ、馬主たちのうれしさはどんなだろうと思っていた夕方、タムラくんグループがやってきた。
 「桜花賞やオークスを勝ったスウヰイスー、オークスや有馬記念を勝ったスターロッチ、天皇賞春を勝ったモンテプリンスとモンテファスト、ダービーを勝ったダイナガリバーなどを走らせた松山吉三郎さんの話をします。
 吉三郎さんの父は尾形藤吉厩舎の厩務員で、息子の吉三郎と樹子を鹿児島から目黒にあった厩舎に呼び寄せた。ふたりとも、まだ小学生。
 吉三郎さんの妹の樹子さんは、のちに松山バレエ団を創立した人です。
 騎手となり、調教師となった吉三郎さんが、調教師を引退したあとのこと。
 府中に住む吉三郎さんを私が訪ねました。
 「勝った負けたの毎日だったからね、引退して、勝った負けたから解放されてホッとしてるよ。
 ホッとしてね、まさかもう、現役のころの夢は見ないだろうと思ってたのに、まだね、そういう夢を見るので辛くなるよ。
 馬がね、わたしを馬房の壁に押しつけてくるの。怒っていてね、わたしに反抗してくる。
 馬ってね、勝つ馬より勝てない馬のほうが多い。こいつ、勝てないなって分かっても、高い金と夢がかかってるんだぞって、こっちは鞭で叩くわけよ。そういう馬はこっちを恨んでるのさ。
 馬がわたしを潰そうとする夢。引退したらもう見ないかと思ってたがね、まだ、ときどき。と松山吉三郎さんが言ったの、おれ、忘れられないんだよなあ」
 話をしながら私は、タムラくんたちがどう聞いてくれているのかなということよりも、この吉三郎さんの夢の話が、どうしてこんなに自分の心に刻みこまれているのだろうと不思議に包まれてくる。ごめん、昔話しか出来ないオワコンで、という気持ちもちらつきながら。

トップへ