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第368便 不思議な世界

2025.08.12

 『ニンゲンはカネとコドクのたたかいをする生きもの。ボクの武器はジョーダン弾!』というのが私の人生観である。悲しみや空しさと向き会うのに有効な手立てはユーモアだ、というロシアの劇作家アントン・チェーホフの言葉が、心もとない私の人生を救ってくれた。
 50代半ばごろ、JR鎌倉駅に近い地下鉄の酒場でときどき顔を合わせた紳士から、 
 「うちの施設に来て子供たちを笑わせてくれませんか」
 と声をかけられた。どうやら私の冗談を認めてくれていた紳士は、孤児を養育する施設を運営する人だった。
 それがきっかけで私は、月に何度か鎌倉や横浜の養護施設へ行って、孤児たちとつきあうようになった。面倒な病気に襲われた70代半ばまで、その用事を私は続けていた。
 2025年6月17日の夜、植木職人の正也から電話があり、今日が誕生日で、 
 「おれ、3年前の24歳の誕生日に、祝ってあげると奥さんが呼んでくれて、吉川さんの家で奥さんの手料理をごちそうになったの忘れられないって花奈に言ったら、花奈が、どうしても線香をあげたいって言ってるんです」
 と言うのだった。この数年、正也はかみさんのお気に入りの植木職人で庭を任せていたけど、この4月に結婚した花奈、カナとは会わずに旅立ってしまった。
 「まだ、骨、家にいる。6月29日に納骨するんだ」
 と私が言った。
 電話のあと、10歳ぐらいだったろう正也が、私が養護施設に行くと走ってきて、近づくと直立不動の姿勢になって敬礼をし、それを私も真似して、敬礼していたのを思いだした。
 正也は6歳のころ、父親を交通事故で失い、9歳のころに、母親を胃癌で失くしている。
 どうやら正也は学校ぎらいのようだから、早くに世間で働かせたほうが、と感じた私は、社台グループの共有馬主会員で、藤沢市で造園業を営む人に17歳の正也を会わせ、正也も納得して造園会社に住み込んだ。タチが合ったのだろう、正也は元気に、うれしそうに、植木職人としての道を歩いている。
 6月22日、異様に暑い日曜日の午後、正也と花奈が私の家にきて、かみさんの写真に手を合わせてくれた。花奈は藤沢市にある大きな病院の看護師で、今日は夜7時からの勤務だという。
 これまでに何度か会っている花奈に、
 「カナさん、キゲンよく生きていますか?」
 と私が聞き、
 「ハイ。ときどきはキゲン悪くなる時もあるけど、全体的にはマアマアのキゲンで」
 という花奈の返事。
 「よかった。まったくキゲン悪くならないというのも心配だしね」
 と私が笑い、正也も花奈も笑った。
 

 テレビの競馬中継を見る。
 「正也を初めて競馬場へ連れて行った時、競馬場の何を見ても正也の眼が、キラッキラッとしてるんで、こいつ、競馬にハマるなあと思ったら、見事にハマった」
 と私が花奈に言い、 
 「その日のことは絶対に忘れまいと思ったのでおぼえてるんだ。フローラS。施設の時に仲よかったけど、あとで自殺しちゃったカッちゃんを思いだして、モズカッチャンの単勝を買ったんだ。
 モズカッチャン、人気なかったけど勝っちゃって、配当が3,720円。吉川さんもカッちゃんを知ってて、おれがモズカッチャンの馬券を見せたら、吉川さん、目に涙をためちゃって、なんだかしっかり、握手したの、おぼえてる」
 と言う正也は、泣きだしそうな顔になっていた。
 「不思議。競馬のことを喋る時の正也って、別人のマサヤ。マサヤに会うまで競馬のこと、何も知らなかったし、今も知らないのだけど、競馬って、不思議な、知らない人には不思議な世界」
 と花奈の喋りはほとんどひとりごとになった。
 「夏にビッグレッドファームにいた吉川さんを訪ねて行って、放牧地で、種牡馬のステイゴールドと、長いこと一緒にいた時のことも忘れられないなあ」
 と正也が言い、
 「おれが忘れないのは、いつだったか正也が、競走馬も父とか母とか母父とかいうけど、馬も孤児と同じ一生だよなあって正也が言ったこと」
 と私が言った。
 「今日、イベントがあるんです」
 と花奈が笑顔になった。
 「父ロードカナロア、母ティッカーテープ、母の父ロイヤルアプローズ。ノーザンファーム生産のカナテープという牝馬がいるんです。カナ、テープ。買わないわけにいかないでしょう。
 今年の冬に4勝目をあげて、今日の府中牝馬Sを走るんです。ずうっと馬券買っていて」
 そう正也が説明し、
 「モレイラとか松山とかキングとか、一戦ごとに騎手が変わるんだけど、今日は大野拓弥。おれ、大野ファンだからうれしい。単勝と、カナテープからの馬連を5点買ってるんです」
 と両手を合わせて拝んだ。
 「2着とか3着が多いから、複勝というのを買えばいいのにって思うんだけど、それは馬に失礼だとか言って」
 と花奈が首をかしげた。
 「4勝してるってことは、競走馬として凄いこと。重賞レースのゲートに入るってことは、競走馬として凄いこと。ほとんどの馬は、ひとつも勝てずに終わってしまう」
 そう私が言うと、
 「勝ち負けがなくて、人間でよかった」
 と花奈がつぶやいた。
 東京11R、第73回府中牝馬Sの14頭がスタートした。
 「黄色いヘルメットの7番」
 と正也が花奈に教える。
 カナテープは終始好位置。
 「勝てる」
 正也が激しく吠えた。しかし、浜中俊騎乗のセキトバイーストに1馬身差の2着だった。
 馬連が当たった。3人の手がひとつになって祝った。競馬は不思議な世界、と私も思った。

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