烏森発牧場行き
第372便 善哉さん
9月末、(株)中央競馬ピーアール・センター映像部長の畠山武久から、
「先日お電話を差しあげた、サンデーサイレンス導入の話を、鈴木淑子さんの司会で、吉田照哉さんとしていただく件、11月5日に社台ファームにて撮影と決まりました」
とFAXがきた。
8月中旬に左肩鎖骨骨折の手術、9月初旬に心臓のペースメーカー手術をした私は不安もあったが、声がかかるのはうれしいこと。その仕事を引き受けた。
「飛行機に乗る時、荷物検査のゲートを通る時、ピィーと鳴っちゃうので、ペースメーカー手帳を見せないと」
と医師から聞いていたので、11月4日、羽田空港でそうすると、ゲートとは別の口から通された。
11月5日、快晴で、そんなに寒くもなかった。久しぶりの北海道の畑や森のひろがりがうれしくて私は、子供のように緊張して景色を見ていた。
11月2日に生産馬マスカレードボールが秋の天皇賞を勝ったばかり。社台ファームの事務所はお祝いの花があふれていた。
そうだよ、マスカレードはサンデーサイレンスの3×3だ。おお、日本時間11月2日の、デルマー競馬場でのブリーダーズCクラシックで勝ったフォーエバーヤングも、父の父の父はサンデーサイレンス。
サンデーサイレンスがBCクラシックを勝ったのは1989年。
ちょっとごめん。おれの年齢、計算させてよ。おお、おれ、52歳。べらぼうめ! おれだって52歳のときがあったんだ、クソッ!
無事に撮影仕事を終え、空港へのレンタカーのハンドルを握る畠山武久、同乗する鈴木淑子、メイク担当の岡田詩織、私は、遠方の空にくっきりと浮かぶ円型の火の色に声をあげ、息をのむ。一緒に仕事をした仲間との記念の形、色彩のように感じて私は、うれしかった。
11月6日、旅仕事の無事にホッとし、庭の草木を眺めながら、早来のスタリオンで会ったキタサンブラックや、社台ファームで会ったマスカレードボールの母のマスクオフを思いだしているうち、ひょいと、サンデーサイレンスと吉田善哉を語る番組に、私なりのタイトルをつけるとなれば、どんな言葉になるだろうという遊びを思いついた。
「夢というのは消えてしまうことが多いけど、慾というのは消えない」
とよく吉田善哉は言った。
「夢は持つな。慾を持て」というタイトルはどうだろう。テレビ番組のタイトルとしては、ちょっと変だな。
「馬といる。人といる。慾といる」
と思い浮かんだ。
いや、タイトルとしては、慾という言葉が誤解されるな。
そうそう、「わたしは馬喰なんだよ。生涯、馬喰なんだ。馬喰としてのプライドを持っている」
という言い方も、よく吉田善哉はしていた。
「馬喰の汗と涙によろしく」
というタイトルはどうだろう。
馬喰という表現が誤解されるかな。
「人間が生きてゆくのには、慎重さが大切だ。つまり、石橋を叩いて渡れとな。でも、石橋を叩いているうちに、疲れて渡れないことのほうが多いような気もするね」
と吉田善哉は言っていた。
そうそう、「うちの父親、石橋を叩かずに、思ったことをどんどん」
と吉田照哉も言っていた。
「石橋を叩かぬ男」
というタイトルはどうだろう。うーん、馬の匂いがしないな。
吉田善哉は生まれ育った北海道の白老に誇りを感じていた。社台ファームを千葉で創業してすぐ、アメリカの生産地を勉強に行き、日本の競走馬生産とのスケールの差に圧倒されながら、いつか自分が、アメリカに負けず劣らずの牧場を作ってみせると覚悟した。それで千葉の富里で、それこそ石橋を叩くヒマもなく仕事した。
「白老よ。アメリカよ。富里よ。」
というタイトルはどうだろう。うーん、タイトルとすれば、説明を必要となるかな?
吉田善哉は富里に牧場をひらいたころ、結核におそわれて、体重が40キロぐらいの時があったという。
下河辺牧場の創業者の下河辺孫一や、東牧場の創業者の出羽卓次郎といった千葉のホースマンから若い吉田善哉の話を聞いたことがあるが、「善哉さん、若いのに、いつも死を意識していたなぁ」ということだった。
「あの馬はわたしだ」
とサンデーサイレンスのことを言っていたのは、病気や馬運車の事故で死の危険と戦ったデビュー前のサンデーサイレンスと、病魔と戦った自分を重ねあわせての思いだろう。
でも、タイトルとしては、「あの馬はわたしだ」は感傷的だと思われてしまうかもしれない。
ああ、種牡馬は競走馬の神様、と言うよね。するとサンデーサイレンスは、日本の競馬界に君臨して、神様たちの神様だよなあ。
「神様たちの神様!」
うーん、タイトルとしては変?
吉田善哉がよく言うひとりごとがよみがえってきた。「死んだら骨」というのと、「親が死んでも朝めしだ」というふたつ。
富里の牧場へ行く車に、吉田善哉と同乗していた時、
「特別に好きな言葉というのがあるのかね」
と聞かれて私は、
「無名の詩人が書いた詩の一行に、親が死んでも朝めしだ、というのがあるんですよ。これは凄い言葉だと思った」
と返事した。
事業の敵は感傷。そう決意している吉田善哉にとって、「親が死んでも朝めしだ」という言葉は、深く心に残ったようだ。
ふと、渋谷の「ジァン・ジァン」という小ホールで、私のとなりの席で、高橋竹山の津軽三味線の音を聴いている吉田善哉を思いだした。竹山は、吉田家の先祖がいた同じ東北の生まれ。
ああ、善哉さん、そういう時間もあったなぁ。
