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第374便 不平不満

2026.02.12

 2025年12月12日の夜、家の食卓で無音とつきあいながら、「フィンセント・ファン・ゴッホ」と、ひとりごとを言っていた。明日、上野の東京都美術館の、「ゴッホ展・家族がつないだ画家の夢」へ行くからで、その楽しみがひとりごとになった。
 京都でバーテンをしていた22歳のころ、京都大学の美学の先生がカウンターにいて、連れの誰かに、「小林秀雄のゴッホの手紙を読みなさい。凄い本です」と言ったのを盗み聞きしてメモし、私は古本屋でその本を手に入れた。
 その本を私は何度も何度も読んでいる。仕事部屋の書棚から私は居間へ持ってきて、その本に、「おれ、もうすぐ89歳になっちまったよ」と思いを向けた。
 セロテープで補修された表紙。ひらくと傍線や短い書き込みがあちこち、何頁かに付箋。「烏のゐる麥畑」と「ドービニーの庭」だけがカラーで、そのほかの20数枚の絵はモノクロではさまれているが、ひとつの絵だけ抜いて、私がいたアパートの4畳半の壁に貼っていた記憶がある。それは「馬鈴薯を食ふ人々」。
 心もとない日日を過ごしながら、おれも家族を作ってテーブルを囲んで食事する夢を持っていたのだろう。
 付箋のある頁をひらいてみる。
 「忘れぬうちに君に言って置かねばならぬが、これは僕が實に屢々考へたことなのだ。偶然古新聞に載った論文で読んだのだが、此處とカルバントラとの間の田舎の古代の墓に書かれた言葉、實に實に實に古い、フロオベルのサランボオ時代の墓碑銘の事なのだ。『誰にも不平がなかったテーベ、テルイの娘、オシリスの尼僧』と書かれてゐる」
 弟のテオに書いたゴッホのこの手紙に、私は息をのみこんで向きあったのだ。
 私は父親のことを、よく考える息子だった。小学校も卒業しないうちに丁稚奉公に出され、それから働き詰めの人生。ガキのころ、飴をなめている友だちにくれよと言ったらくれなかったので、小石をしゃぶりながら遊んだとか。人間には働き者と怠け者がいるが、なんとか働き者になれよとか、口数の少ない父親からの言葉を忘れないようにしながら、そうか、自分のおやじも、誰にも不平不満がなかったのだろうと、そう感じて私はそのページに付箋を貼ったのだろう。
 そうだった、私は1978(昭和53)年、41歳の時、幸運にも文学賞をもらったが、その時の受賞のことばにも、それを引用したよなあと思いだし、その時の雑誌も仕事部屋へ取りに行った。
 「田舎の古代の墓に、誰にも不平がなかったテーべ、テルイの娘、オシリスの尼僧、と書かれた墓碑銘の事を、ゴッホが手紙に書いている。彼女は、誰にも不平がなかった。とはどういうことか。完全な永遠を想像したければ想像し給え。が、次の事を忘れないようにしよう。ああいう古い時代の現実も、それを持っていたのだ。と手紙は続いている。
 このゴッホの手紙の一節が、忘れた時分によみがえっては、何年となく僕の時間を夕やけのように染める。何故忘れられないのだろう。おしくらまんじゅうの通勤電車の中で、墓地でひとかたまりになっている無縁仏の前で、テレビで首相の演説を眺めていて、馬券売り場で、不意に夕やけが拡がる。その夕やけをキャンバスに描いてみたくて、自分の戦場を書いた。受賞はうれしい。ありがたい。ぜいたくだ」
 と書いている。
 そうだよなあ、不平不満があったら、日々の労働から逃げるよなあ。


 12月13日、上野へ行く。上野駅を出てすぐに国立西洋美術館があり、その庭にロダンの「考える人」がある。昔、タウン誌「うえの」に、「ロダンのお尻」という文章を書いたなあ。
 ゴッホと、ゴッホから無数の手紙を受けとった弟のテオと、ゴッホの絵をしっかりと守ったテオの妻ヨーと、たくさんの話をしたような、不平不満のない半日をすごして私は幸せだった。
 12月28日、有馬記念で中山競馬場へ行く電車に乗っていて、突然、競走馬には不平も不満もないよなあと思い、その思いが牧場の風景へつながり、雪のなかで競走馬の世話をする人も、不平不満があったら出来ないよなあと考えた。
 第70回有馬記念は3番人気ミュージアムマイルが勝ち、12番人気のコスモキュランダが2着。
コスモを買わなかった私の馬券は紙屑。空から、「わたしのこと、忘れないでください」というコスモを率いていた岡田繁幸の声が聞こえた。
 12月30日の朝、30歳の孫のヒナコから、「大井に来ない?」という電話がきた。南品川に住むヒナコは大井競馬場へ歩いて行けるので、よく遊びに行っている。
 抽せんが当たってヒナコは有馬記念を中山競馬場で見ている。予想記事など関係なしに、パドックで馬を見つめて馬券を買うのがヒナコの楽しみで、満員混雑の有馬記念はそれが無理で、
 「1年の終わりを大井で遊びたい」
 とヒナコは言うのである。
 ヒナコという子、不平不満のない子だよなあ。仕事大好き人間。べつに孫自慢をする気はないが、あの明るさはヤッホーだよなあ。
 ヒナコが働く会社のオーナーはフォーエバーヤングの馬主。そのこととヒナコが馬券で遊ぶことは何も関係ない。
 私も大井へ出かけた。有馬記念の中山競馬場にはあまりいなかったオジさんやオジイちゃんがけっこういて、私はうれしい。
 第10R東京シンデレラマイルが決着した時、
 「やってしまった!」
 とヒナコが右手を空へ突き上げた。
 1着が4番人気のホーリーグレイル、2着が16頭立て16番人気のコアリオ。
 コアリオの単複。コアリオを絡めた馬連単と馬連複をヒナコは買っていたのだ。
 「パドックでいちばん集中してたもん、コアリオ。うーん、コアリオ。やってくれちゃった、コアリオ。やったね、ヒナコちゃん」
 とヒナコは馬券を手のひらにはさんで拝んだ。
 複勝5,930円。馬複13万7,590円。
 孫にご馳走になるうれしい日になった。不平不満のないヒナコが、不平不満のないコアリオという5歳牝馬と出会ったのだと私は乾杯した。

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