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第102回 暮らしの場、誰かの大切な場所としての競馬場

2023.05.25
 以前、船橋競馬場の調教師の皆さんから、競馬場にまつわる思い出話についての取材をしたことがありました。それを機に、厩舎の皆さんもきっといろいろなエピソードをお持ちなのではと思い、取材の際に聞き集めをスタート。今回、その一部をお伝えしていきましょう。
 第95回でも触れましたが、船橋競馬場がある場所はもとは海。1950年代、埋め立て工事初期のエリアに建てられたのが船橋競馬場でした。

 その後、周囲の埋め立てが進み、競馬場の南側に若松団地が誕生。人口も増加し、1960年代後半には、現在南船橋駅がある付近に中学校が建てられ、厩舎の子どもたちも通っていたとのこと。当時はまだ高速道路や高い建物も無く、校舎の窓からレースが見えたそうです。

 埋め立てが進むと競馬場を取り巻く環境も変わり、「高速道路ができて、車の音がするようになったね。空気のにおいも変わったなと思ったよ」と話すベテラン厩務員さんもいました。高度経済成長期となり、環境の変化のスピードが加速した時代だったのですね。

 厩舎での暮らしも大きく変化したと聞きました。現在では、競馬場の外に住んでいる厩舎関係者がほとんどですが、1980年代以前は騎手も含めた多くの関係者が場内で暮らし、ひとつの町のようだったとのこと。もちろん今でも場内で暮らす方はいるのですが、以前と比べると、子供たちの姿を厩舎周辺で見かける機会が少なくなったことに気が付きました。

 10年ほど前には通学時間になると、広い厩舎地区を競馬場の通用門まで自転車で移動する(通用門から外は徒歩)小中学生の姿を見かけたのも、今では懐かしい光景です。厩舎周りの柵のペンキ塗り、花壇作りのお手伝いをしている子どもたちの姿を見かけたこともありました。

 年末近くには、競馬場内で子供会のイベントポスターを目にしたこともありました。そういったことを思い出すと、この地が競馬場というだけではなく、ここで暮らした誰かの大切な思い出の場所なのだと、それは現在進行形なのだと感じます。競馬場での暮らしというと何か特別な印象もありますが、家族や友だちとの時間など、世間一般によく知られる日常の風景があるのだと。

 その中でもやはり、馬という存在は特別なものでしょう。取材をする中で、とても印象に残っているシーンがあります。JRAの第1回夕刊フジオーシャンステークス(GIII)に出走、14番人気で優勝したネイティヴハート(船橋・坂本厩舎)が現役を引退して、北海道への出発を間近に控えていた2007年12月のこと。厩舎関係者の家族の皆さんとネイティヴハートのもとへ向かうと、気性が荒いと言われていたネイティヴハートがおだやかな表情で鼻を寄せ、優しい目のまま、そっと首を下げていた光景。
  第102回 暮らしの場、誰かの大切な場所としての競馬場の画像 それはまるで、いつもそばにいた家族との別れを惜しみ、挨拶しているかのようにも見えました。子どもたちが多く暮らしていた時代、もしかしたらそういった場面もたくさんあったのかも知れませんね。調教師の奥さまが退厩する馬にりんごを持たせた、次の場所で出会う人宛ての手紙を添えたという話も耳にしました。

 子供たちといえば、昭和の頃は学校から帰ると引き運動を手伝うこともあったとのこと。今より制約も少なかったゆるやかな時間、それでいて速度を増す時代の流れによって変化していった風景を思うエピソードです。

 今回、過去の話を集める中で、「昔の厩務員?みんな名物みたいな人たちばかりだった」という言葉を聞いた時、吉田拓郎さんの「落陽」という曲を思い出しました。インターネットがある今では、小さなことも記事になれば後々まで残る。けれど、そうでなかった時代のことは、どこかに刻んでおかなくては、いずれ消えてしまうかも知れない。

 人生を賭けて守り、受け継いで来た場所。そういった場所は、形式や風景が違っても、それぞれ、多くの人が持っているものなのかも知れません。競馬はそこで生きる人たちが大切にしている場所で行われているのだと、心のどこかで覚えておきたい、思い出す時間を持っておきたいと思いながら、この記事を書いています。今また、「落陽」が聞きたくなりました。
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